日米戦争の原因について、まず注意を払いたいのは、当時のアメリカと中国の意外に親密だった関係だ。

「恋愛関係」とは、妙な例えであると思われるかもしれないが、実際には、恋人というのは、相手に対する強い執着を抱きながらも、互いに理解し合えなかったり、傷つけ合ったりする、不思議なやり取りのある関係でもある。アメリカと中国も正にそのとおりだった。日米の場合を遥かに超えるような移民問題があったこと、中国が共産主義国家になった後には、正式な外交がすべて断たれてしまったこと、朝鮮戦争の際、実際に交戦までしてしまったことなど、これはすべて一般に知られているが、ここでは、この「離婚」の前の関係に焦点を当てよう。

1884年2月に、アメリカと中国は「望厦(ぼうか)条約」を結んだ。治外法権などの条件もあり、不平等条約だったという解釈もあるだろうが、ここでは、法律や貿易関係の条件より大切なのは、アメリカに譲られた他の種類の特権だ。

その一つは、中国語の学習に関することである。当時、中国国内では、外国人が中国人の教師から中国語を直接学ぶことは禁止されていた。だが、この法令は望厦条約により廃止となった。

もう一つ大切だったのは、五つの条約港で土地を借り、「病院・教会・墓地」を建てる権利がアメリカ人に始めて与えられたことだ。

どちらも、今考えれば、当たり前の権利のように思われるが、この二つの特権はその後の中国とアメリカの関係に画期的な影響を与えた。つまり、それまでブレーキがかかっていたアメリカ人宣教師による布教活動は一気に開放期を迎えた。これこそが、アメリカが中国に恋した瞬間である。

中国で働くアメリカ人宣教師は徐々に増え続け、1920年代になると、その数は6,600人を超えていた。中国の莫大な人口と面積を考えると、「6,600人? 大した人数じゃないな」とも言えるが、問題は宣教師が中国で挙げた布教の成果だけではない。つまり、数十年にわたり、何千人もの熱心な宣教師は、本国のアメリカでも活動していた。中国で病院・学校・教会などを建設するための募金活動がアメリカ国内で行われたし、宣教意識を高めるために、数多くの説教や著書がアメリカの会衆に向けられた。協力を得るために、政治家への呼びかけも盛んに行われた。このような活動によって多くのアメリカ人は宣教師に影響され、ある意味では、中国での成果より、宣教師たちがアメリカで挙げた成果の方が著しかった。

中国におけるYMCA(キリスト教青年会)活動の話もある。1922年までに36都市に支部が設置され、YMCA会員は54,000人にまで上っていた。YMCAの職員の半数以上は中国人だった。公衆衛生や反アヘン運動に力を入れながら、YMCAは様々な教育活動に積極的に取り組んでいた。国際問題にも関心を示し、満州事変勃発後の1931年には、中国YMCA会長だったデヴィッド・ユイは、ワシントンDCまで行き、日本軍による満州占領の不義を訴えた。

宣教師夫婦の娘であり、中国で育った小説家パール・S・バックの活躍も忘れてはならない。ピューリッツァー賞およびノーベル文学賞を受賞した彼女が常に作品のテーマにしていたのは、中国農民問題や貧困に耐える孤児の体験だった。1931年に書かれた作品『大地』が1,500,000部も売れたことは、一般のアメリカ人が中国に対して強い関心を抱いていたことを示すだろう。同小説は、1937年に映画化され、23,000,000人のアメリカ人が観に行ったそうだ。中国で活動する様々な慈善事業団体もバックによって設立された。

では、アメリカの中国に対する情の深さは、日米関係にどのような影響を及ぼしたのだろうか?