「武道精神は戦後、急激に廃れてしまいましたが、実は既に昭和の初期の頃から少しずつ失われつつありました。それも要因となり、日本は盧溝橋事件以降の中国侵略という卑怯な行為に走るようになってしまったのです。『わが闘争』を著したヒットラーと同盟を結ぶという愚行を犯したのも、武道精神の衰退によるものです。

私は日露戦争および日米戦争は、あの期に及んでは独立と生存のため致し方なかったと思っています。あのような、戦争の他に為すすべのない状況を作ったのがいけなかったのです」

『国家の品格』 第一章より

「日米戦争」の話を一旦置いておいて、「日露戦争」についてまず考えよう。

日露戦争に関しては、「日本の独立と生存のための戦いだった」という考え方を持つ当時の欧米人も多かった。特に好意的な態度を示したのは、日本の陸軍と共に行動し、日露戦争を最前線で見たイギリス人観戦武官たちである。

早速、観戦武官の一人、イヤン・ハミルトンが著した本を見てみよう。『日露戦役観戦雑記』は、終戦早々の1905年に出版され、二巻で合わせて900ページ以上の長編随筆である。ハミルトンは、黒木為楨大将などと接しながらも、一般の兵隊との交流を大切にし、豊かな表現力で自分の体験を記録した。日本軍の将校たちの威厳ある振る舞い、兵隊一人ひとりの勇敢な戦いぶり、日本人の愛国心と武士道へのこだわり…。ハミルトンは、明治維新以来、急激に現代化してきたにもかかわらず、古代文化独特の良さを保ち続ける日本陸軍に大変感心したようだ。

第二巻の前書には、ハミルトンはこのように記している。

『私は自分の見聞きしたことをそのまま書くことしか出来ない。理解するかしないかは読者次第である。しかし、感性が深ければ深いほど、読者は黒木大将が率いる全ての兵隊を活気付けた偉大なる愛国心に共感するに違いない』

『日露戦役観戦雑記』の内容にまた触れる機会はあるかと思うが、武士道などにこだわるハミルトンの哲学的な随筆に比べて、日本軍の戦果をとにかく熱狂的に賞賛する書物もあった。

例えば、『The War Between Japan and Russia』は、「シカゴ・クロニカル」(新聞)の編集者を務めたリチャード・リンシカムと特派員のトランブル・ワイトによる共著作品である。戦争がまだ終わらない1905年上旬にこの本は出版されたため、旅順開城までの戦史しか掲載されていない。だが、すべての記事において、両著者は日本への熱烈な好意を表している。『The War Between Japan and Russia』の締め言葉である次の文章で、全体の格調がうかがえる。

『旅順開城は、一年にも及ぶ奮闘の画期的な出来事であった。そして、破砕された塁壁の上に空高く上げられる日の丸を、万国から眺める各々の民は、平和な将来を約束する曙として受け止めた』

戦時中及び戦後のアメリカの新聞記事も、国民の日露戦争への高い関心を表している。ここでは、二つだけの例を挙げよう。

1904年7月1日、「ワシントン・ポスト」の一面には、魚雷攻撃を受けた日本軍の最新情報と同時に、「Rabbis on Eastern War」という見出しで、こんな記事が取り上げられている。

『日露戦争について、ユダヤ教改革派の考えは次のように会議報告書で述べられている:

「私達は、(敵が滅びても、勝ち誇ってはならない)という聖典の教えを忘れてはならない。だが、独裁政治の破滅はその不正な行いによる当然な結果であることも、この戦いの大切な教訓であると言えよう」』

当時のロシアでユダヤ人が受けていた迫害を訴えながら、アメリカのラビたちの言葉はその後も続くが、ここで注意したいのは、ロシア軍にとっての悪戦況は『独裁』の当然の報いであるという考え方だ。これは、アメリカの社会において、決して珍しい考え方ではなかったようだ。例えば、『The War Between Japan and Russia』の序文には、次のような言葉があり、多くのキリスト教徒もユダヤ教改革派と同じ考え方をしていたことがわかる。

『確かに日本はキリスト教の国ではない。仏教など、我々から見れば異教の宗教が主流である。だが、日本においては、思想も言論も宗教も自由である。信仰及びその普及を妨害する規制はまったく存在しなく、日本の政権下ではキリスト教の宣教師も自由に働ける。人権や所有権も、ロシアと違って、日本では保障されている。自由・正義・教育・努力、キリスト教の真髄と言うべきものが、日本独特の精神にも数多く含まれており、巨大な敵国であるロシアよりも、日本こそがこうした真理を大切にしていると言っても良かろう』

二つ目の新聞記事は、フランスの政治家の珍奇な発言についての報告である。1908年1月11日、移民問題で日米関係が乱れ出した中、ルシエン・ミルヴォイは、イギリスとフランスこそが外交を通して日米の和解を実現させる義務があると主張した。そのうえ、その責任を逃れようとするイギリスを批判し、同時に日露戦争の責任をイギリスに負わせようとしている。

『ルシエン・ミルヴォイ氏は、日露戦争勃発の責任は英国にあると主張する。そして、「満州を墓地化した」あの大戦に相次ぐ「世界を震えさせる、新たな忌まわしい戦争」を望んでいるのかと、英国に問い詰めている:

「アメリカ対日本の戦争を煽り立てれば、両国が潰れた後に、極東アジアを支配できるなどと、英国人は考えてはならない。そうした場合、インダス川からアムール川まで、アジア諸国の民族も立ち上がって抵抗するからだ」』

ヨーロッパ人によるこんな発言が「ワシントン・ポスト」で話題にされたことは、日露戦争についての関心が高く、いろいろな視点から盛んな議論が終戦後にも為されていたことを示す。「イギリスは日露戦争を引き起こしただけではなく、今度は、日米移民問題を煽り立て、日本とアメリカを戦争に追いたてようとしている」という至ってでたらめな陰謀論でさえ、アメリカの新聞で注目されるほどだった。