歴史を芸術に例えるとしたら、彫刻が一番似ている分野だろう。

要するに、歴史の基本的な「事実」は、歴史家の手では粘土となり、その粘土を使い、歴史家は自分のイメージどおりの作品を作り上げる。粘土を練りながらゴミを取り除く彫刻家と同じように、歴史家も自分の「作品」に入れたくない史実を取り除くことが出来、作品の中には、自分の歴史観と解釈をいくらでも強調できる。

自分の先入観を認めた上で、ありのままの史実だけ伝えようと努力すれば、歴史家はある程度バランスのある作品を作り上げられる。すると、過去と同じ問題に取り組む現代人の参考にもなり、大きな価値のある「良い歴史」は生まれる。

しかし、芸術家が模写を試みても、なかなか自分の癖をなくせないのと同じように、歴史家も自分自身の思想や先入観を完全に消滅させることは出来ないだろう。通常なら、こうした歴史解釈の多様性は問題にならなく、逆に言えば、いろいろな考え方があった方が望ましい場合もある。

だが、やたら自説を押し通すだけの解釈ならば、それは、骨もなく、粘土がべとべとと重ね合わせられた彫刻に等しい。美しさもなければ、実用性もない。こうした「悪い歴史」は、過激派や原理主義者のプロパガンダ以外に、何の役に立たない。

歴史は面白い。歴史の勉強は楽しい。歴史を語り継ぐことは言い尽くせないほど大切である。だが、何と言っても、歴史の解釈に無くてはならないものはバランスである。無知や先入観によってそのバランスが崩れてしまえば、歴史は危険にもなり得る。

しばらくは、大きな歴史問題に焦点を当てることにしよう。どれも大切な話題であリ、大いに研究する価値がある。