「近代的な平等の概念は、恐らく王や貴族など支配者に対抗するための概念として、でっち上げられたのではないかと考えます。だからこそ、平等を真っ先に謳ったアメリカ独立宣言では正当化のために神が必要だったのです」

「国家の品格」第三章より。

ここでは、藤原氏は独立宣言の「前文」を言っているのだろう。

『我らは次の事実を諸々自明なものと解する。すべての人間は平等に創造され、作り主によって、本質的尚且つ侵すべからざる権利を与えられている。その中には、生存、自由、幸福の追求などの権利も挙げられ、これらの権利を守るためにこそ、被統治者の同意によって正当な権力を得る政府は用いられる』

アメリカ人なら誰でも小学校で暗記させられる、トーマス・ジェファーソンの名文だ。

さて、「平等」という概念を好まない藤原氏が「国家の品格」の第三章で言っているように、平等というのは、才能上、学習能力上、実際にはありえないものだから、意味のない概念なのだろうか? すべての人は同じ機会や経験を与えられないため、「平等」を夢見るのは無益な愚行だろうか?

確かに、藤原氏が他の所で言っているように、当時のアメリカは奴隷制度の本場だった。しかも、「独立宣言」を執筆したジェファーソン自身も奴隷を所有していた。一見して「独立宣言」は矛盾だらけの偽善な文書に見える。やはり、「平等」というのは、「神」という迷信に頼ってしか正当化できない嘘なのだろうか?

言うまでもなく、私はこれもまた藤原氏のカリカチュア交じりの智子イズムだと思う。さて、それはなぜだろうか?

まず、人の才能や学習能力について言うと、それはもちろん藤原氏の言うとおりだ。ある人は美しく歌えて、ある人はまったく音痴である。ある人は計算が得意で、ある人はまったく頭が回らない。人生経験においても著しいばらつきがある。裕福な家庭に生まれる人もいれば、貧乏な一生を過ごす人もいる。良い伴侶とめぐり合う人もいれば、孤独な一生を過ごす人もいる。残念ながら、そういう意味では平等なんてものはありえないのだ。

だが、これは当たり前の現実であり、誰も否定しないことだろう。独立宣言の前文で、ジェファーソンはすべての人間が同じ才能や学習能力をもって生まれ、同じように成長すると言っているわけがない。藤原氏だってそれを理解しているだろうが、「平等」という概念をなるべく愚かに見せるために、そんなカリカチュアを利用している。

では、独立宣言が訴えている「平等」というのは、本当はどういう概念だろうか?

それは、すべての人が法律上では、同じ価値があり、身分などによる差別はあってはならない、ということだ。それから、生まれ持った才能は何だろうと、生まれ持った知的能力はどの程度のものだろうと、誰もが自由に生き、幸福を追求する権利がある。独立宣言でジェファーソンはこういうことも訴えていたのだ。

同時に、独立宣言の平等への主張は当時のイギリスの思想であった「王権神授説」を否定する目的があった。確かにこれは王や貴族の支配への対抗を裏付ける考え方だったが、藤原氏の言う「でっち上げ」ではないだろう。どちらかといえば、繊細な理論に基づいた冷静な主張ばかりだった。「全人類の意見を尊重するならば,独立へと駆り立てた原因を宣言する必要がある」とジェファーソンが宣言で書いたように、宣言はイギリス国王に対する示威行動だったより、他の国々の人々や後世の人間(藤原氏を含め)などの理解を得るための文書だ。

独立へと追い立てられた理由は、二七個も宣言中にあげられ、中には次のようなものもある。

• イギリス国王は、植民地の公共利益のために堅実且つ必要な法律の実現を認めなかった。

• イギリス国王は、人民の権利を主張する植民地の代議院を何度も解散した。

• イギリス国王は、植民地における司法の執行を自分の意志に依存させるために、判事の給料額や支払いを巧みに操作した。

• イギリス国王は、軍隊を管轄する権利を民間指導者から外し、民事司法を完全に軍部に委ねた。

• イギリス国王は、きちんと裁判もせずに、植民地で自分の兵隊が犯した様々な犯罪の処罰を免じた。

• イギリス国王は、植民地の人民たち自身の裁判をたびたび拒絶したり、もしくは、海の向こうにある本国へ被告を移送してから不平な裁判を行ったりもした。

でっち上げられた「平等論」ではなく、独立宣言の内容は、基本的な人権への妨害に対する具体的な訴えだった。

では、次回は奴隷問題の矛盾について考えてみよう。