では、「野蛮だったヨーロッパ」の「さほど野蛮ではない」事実を、他にも少し挙げてみよう。

• 「三圃式農業」が開発された。穀物用、豆類用、休耕地に畑を区分し、そのローテーションを毎年組むことにより地力低下を防ぎ、収穫量を上げることができた。

• 水車を利用する製粉場が徐々にヨーロッパ全土に広まった。1086年のイギリスには5624ヵ所も記録されている。

• 頸木(くびき)などが改良され、以前のように首に直接プレッシャがかからなくなったので、馬や牛に鋤(すき)を引かせる際には、何倍も効率よく土を掘り起こすことが出来るようになった。

• 蹄鉄(ていてつ)も一般に使われるようになり、家畜の労働率が更に上昇した。ちなみに、蹄鉄用の釘を一定の大きさに定める必要があったので、金属加工の技術はいかに進歩していたことがうかがえる。

• 城や大聖堂を建築するための工学技術が常に発達していた。前述のアーヘン大聖堂もその一つだが、中世に多く建造された建物の中に、ウェストミンスター寺院やカンタベリー大聖堂、ノートルダム大聖堂なども代表的なものである。

• オックスフォード大学(1096年)、ケンブリッジ大学(1209年)、パリ大学(1090年)、ボローニャ大学(1088年)などは中世に創立され、その他にも、現代に至るまで教育活動を続けてきた中世の大学は少なくとも50校もある。

• 誰の家にも風呂がある現代人には負けるかもしれないが、中世の人間はかなりの風呂好きだったらしい。清潔面では19世紀のヨーロッパ人にも勝っていたという説もある。庶民も銭湯を頻繁に利用して、お湯に香水を入れたり、バラの花びらを浮かべたりする風習まであった。

• 中世の食材は何となく限られていたイメージではあるが、実際には、今存在するほとんどの野菜類や果物が栽培されていた。チーズ、パン、魚も庶民の食べ物だった。ケーキ、ウエハース、ジャムなど、贅沢品のレシピーも残っている。肉を中心に食べていた貴族は生活習慣病に患われる程だった。

• 医者は少なく、医学そのものは原始的だったとはいえ、胆石や癌、ヘルニアなどの手術は行われていた。ばい菌などの詳細はまだ明かされていなかったのに、消毒用にアルコール(ブドウ酒)や焼灼が使われ、無菌の卵の白身を傷口に塗って包帯で巻いていた。

• 13世紀のパリには病院は12軒もあった。入院手続きの一部として患者の体を洗い、シラミなどの服の消毒も行われた。看護師として働いた尼や在家のボランティアは、患者の体を毎朝洗い、ベッドのシーツを頻繁に変えていた。病室は花で飾られていたそうだ。

• 中世後期には、イギリスの病院は400軒もあり、宗教改革までにはその数が750軒までのぼっていた。

• 数学の進歩を妨げるものには、ローマ数字での計算の難しさがあった。だが、13世紀にアラビア数字が主流となり、簿記などが楽になっただけではなく、数学に対する意欲も出てきた。三角法などもこの頃から一般に知られるようになり、ルネサンス期に見られる著しい進歩の土台が徐々に築かれた。

• 西洋文学の原点も中世にあり、叙事詩・抒情詩・小説・エッセイ、旅行記・演劇など、みんな盛んに書かれていた。

• トルバドゥールなどの吟遊詩人の存在は、一般人と貴族の歌や音楽への関心を示す。

• 写本などのイラストレーション、金細工、彫刻、刺繍……。中世には豊かな職人文化や芸術も存在していた。