藤原氏が指摘している5世紀から15世紀までの期間をまとめて中世と考えることにしよう。千年間もの大陸の歴史を一つの時代として取り上げることなんて、いきなりニュアンスに欠けており、最初からカリカチュアっぽいが、その辺はここでは仕方なく認め、大切なところにだけ焦点を当てよう。

先ず言えることはこれがローマ帝国崩壊後の時代だ。中世の「中」というのはローマ崩壊からルネサンス期の始まりの間を暗示して、二つのいわゆる黄金時代の間を指しているわけだ。

俗ではこの千年間を「暗黒時代」と言うことは未だにある。つまり、古代ローマやギリシアの学問と社会的秩序が乱れてしまったため、人々の心は迷信に支配され、ヨーロッパの諸国は完全に退化してしまった。大陸全土が無知・暴力・疫病に患われ、ルネサンス期の光がさしてくるまでは、どの民族もまるで闇の中をさまよっていたような状態だった。

藤原氏の「野蛮だったヨーロッパ」も、まさにこんなイメージではあるが、はたしてこれは正確な歴史像なのだろうか?

「暗黒時代」という言葉やイメージは、一般の欧米人の間でも深く根付いている。だが、歴史家の間では「暗黒時代」という言い方を用いる人はもはやいないようだ。しかも、中世についての理解が深まり、「暗い」印象を変えるような研究が為され始めたのは、既に百年以上も昔の話だ。

では、「暗黒時代」という言葉はいったい誰が最初に使ってしまったのだろうか? 通常なら、それはなかなか難しい質問だ。ある言葉が使われ始めた時代や環境が定かでも、最初に言い出した個人の名前までは予想の付かないことだろう。しかし、この場合の答えははっきりしている。紀元1300年代のイタリア人、フランチェスコ・ペトラルカだ。つまり、中世を実際に生きていた人物だ。

ペトラルカは詩人だった。そして、イタリア語の抒情詩を得意とするだけではなく、古代ローマの文学に魅せられた彼は、ラテン語文学を古代の美しさに復興させたかったわけだ。比喩的な表現力に富んでいたペトラルカは、「光と闇」という象徴的な言葉を利用して、中世におけるラテン語文学を批判した。つまり、ラテン語を上手に書く筆者が稀に現れたにもかかわらず、彼らは例外であり、ラテン語に対する時代の「暗闇」に包まれていた。この言葉こそが、中世ヨーロッパの「暗黒時代」呼ばわりの始まりだ。

ところが、カリカチュアと智子イズムは、どの時代の人々にとって便利なものであり、文学批評の比喩として生まれたこの言葉は、まったく違う意味でも使われるようになった。例えば、宗教改革中に、プロテスタントの思想家は中世の権力者であるカトリックの聖職者やローマの教会そのものを批判するために、「暗黒時代」という言葉を借りた。「人々の心がローマに支配された長い「暗黒時代」が終わり、新たな真理が世に出た!」といった具合だろう。

さらに時が経つと、ヴォルテールなど、啓蒙時代の思想家たちも、「暗黒時代」という標語を利用した。しかし、今度はキリスト教全般をけなすためであり、彼らの時代からは、反宗教的な使い方が圧倒的に多かったようだ。だが、中世は確かに戦争の多い時代であり、疫病や貧困の時代でもあった。したがって、これらの意味も徐々に入り込むことは避けられなく、「暗黒時代」という言葉が、あらゆる意味において「野蛮だったヨーロッパ」を指すようになるまでは、時間の問題だったかもしれない。

では、19世紀・20世紀になってくると、なぜ歴史家たちの考え方が変わってきたのだろうか? 中世を見直した理由は何だろう?

それは、考古学による画期的な大発見によることでもなければ、難しい内容の研究によることでもない。簡単に言えば、皆落ち着いて、よく考えるようになっただけだ。何百年も続いた宗教に対する感情的な反発も治まり、振り返ってみると、中世の歴史が思ったより複雑で興味深いものだったのだ。

例えば、フランク王国の国王、カール大帝の話がある。在位期間の紀元768年(日本で言えば、聖武天皇在位中の奈良時代)から 814年の間、現代で言う西ヨーロッパ(イギリスを除く)はほとんど統一され、大帝の政権は教育や芸術を発展させられるほど安定したものだった。

ラテン語を流暢に話せた大帝はギリシア語も多少できて、古代の学問に興味を持っていた。宮殿で学校を開き、貴族の間に古典的な教育を広めようとしただけではなく、古代の学問を後世に伝えるために、大帝は国中の修道院で古典の写本を僧たちに作らせた。今日存在するラテン文学や演説の九十パーセントが、この時の写本でしか残っていないのだ。皮肉なことだが、ラテン文学の「暗黒時代」を喚いたペトラルカも、その時代の最も有名な王に感謝すべきだったのだ。

カール大帝が建設を命じたアーヘン大聖堂は805年に完成され、千二百年もたった今でも、八角形の美しい宮廷礼拝堂は訪れる人の心を魅了している。だが、教会だけではなく、大帝は橋や運河の建設にも力を入れたらしく、いわゆる土木事業にも大変な関心を寄せていた。

重々しい威儀・祭礼・儀式などを好まなかった大帝は、宮殿の門に鐘を設置した。どんなに身分の低い人でも、王に訴えのある人がいれば、その鐘を鳴らすと、大帝に直接会うことができたそうだ。

なかなか進歩的だったこのカール大帝の没後には、相応しい跡継ぎが現れなかったことは実に残念なことだ。だが、「理想的な王」として彼の評判は確実に後世に伝えらたため、後世の多くの権力者が影響を受けたに違いない。