GONOSEN-II

文学、歴史、時事問題。 とりあえず、私はこう思う。

真珠湾攻撃までの流れ 1 (30)

では、アメリカと中国の「恋愛関係」を頭に入れながら、真珠湾攻撃までの流れを見てみよう。大雑把ではあるが、次の15点にまとめてみた:

① 20世紀に入ると、軍隊・産業・経済の更なる近代化のため、日本は国内で入手できない大量のゴム、錫(すず)、ボーキサイト、鉄、石油などがどうしても必要だった。これらの資源の貿易は、国の大きな財政負担となっていた。

② 明治維新から日本の人口が倍増したこともあり、「帝国の膨張」こそが、有力な経済政策として取り上げられるようになった。

例えば、1907年という早い時期から、海軍参謀の一部が南方への進出を考え始めた。具体的には、中国の南部地方やマレーシア、フランス領インドシナ(現代のベトナム・カンボジア・ラオス)、オランダ領東インド(現代のインドネシア)の占領を本格的に考慮していた。しかし、これを実行した場合、アメリカが抵抗してくることも予想されていたので、フィリピンやグアムを攻撃することによって米軍艦隊の出港を誘き寄せ、基地から遠く離れた海上で待ち伏せをする戦闘計画も練られた。

あるいは、海軍ではなく、陸軍参謀はどう考えていたかというと、「北進し、満州や東シベリアを占領する」という作戦が有力だった。当然ながら、この場合には、中国やロシアの抵抗が予想されていた。

③ 1931年9月18日、柳条湖事件で満州事変が始まった。

南満州鉄道は、日露戦争後に設立され、特殊会社として日本に運営されていた。柳条湖近くの線路で起きた爆発をきっかけに、日本の「関東軍」が進出し、五ヶ月間だけで中華民国東北地方であった満州全土を完全に占領した。関東軍は線路の爆撃が中国軍による破壊工作だったと主張したが、実際には関東軍の自作自演の策略であった。

翌年から、日本はこの地方において、「満州国」を建国し、太平洋戦争終戦まで関東軍の支配下においていた。

言うまでもなく、満州国建国にあたり、国境の問題が生じ、その紛争のもっとも激しい例はノモンハン事件である。1939年5月に勃発し、9000人近くの日本兵が犠牲者となった。この戦いは、「国家の品格」では、日中戦争の一部として取り上げられているようだが、ノモンハン事件は、日本vs中国ではなく、あくまでも、日本(あるいは満州国)vsソビエト連邦(あるいはモンゴル人民共和国)の戦いだったことを忘れてはならないだろう。

④ 1937年、中国軍が駐在していた盧溝橋付近で、日本軍の戦闘演習が行われた。この演習に対する混乱がきっかけとなり、最初は控えめだった両軍による撃ち合いが本格的な戦闘にまで発展してしまった。この「盧溝橋事件」が日中戦争の始まりだとされている。

ハル議員の記事を通して、この事件はアメリカでも大きなニュースとして取り上げられ、日米関係に大変な影響を及ぼしたことがわかる。だが、もっと重大な影響を与えてしまったのは、盧溝橋より更に南方で繰り広げられた戦闘である。つまり、中国軍を率いる蔣介石が上海付近で反撃を試みると、何ヶ月にも及ぶ新たな戦闘が起こり、徐々に勢力を増した日本軍は少しずつ中国軍を内陸へと追い詰めた。冬には、戦線は首都の南京まで来ていた。

様々な説があるので、12月13日から始まった南京虐殺がどの程度の規模だったかについては、ここでは論じない。とにかく注意しなければならないのは、このニュースがまたアメリカに伝わると、日本の軍隊や政府に対するアメリカの世論は大きな転機を迎えてしまったことだ。

⑤ 1939年9月1日、ナチス・ドイツによるポーランド侵攻で、ヨーロッパにおける第二次世界大戦が始まった。

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1 Comment

  1. 芋三郎

    ブレットさんは、Confirmation Bias に陥っていないでしょうか。日本が「帝国の膨張侵略計画」に従って行動しているかのような書き方になっています。ある意味それは日本に対する買いかぶりです。あるいは、日本は、身の程知らずの浅知恵しか持っていなかったかのようです。

    1907年の時点で、海軍の国防計画に、アメリカを仮想敵としてするのは、海軍力で日本を脅かす国はアメリカしかないので、海軍として当然です。勝てる力はないとしても持てる力で計画します。

    アメリカとの差は歴然としていました。白船の示威行動は黒船来航以来のショックでした。

    グレートホワイトフリート(白船来航)
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%9B%E3%83%AF%E3%82%A4%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%88

    1905年日露戦争時の旗艦「三笠」を初め、戦艦の全てはイギリスに建造してもらったものです。日本で建造した近代的戦艦は1910年に竣工した戦艦「薩摩」が最初です。竣工と同時に世界標準の旧式鑑となっていました。当時、イギリスの戦艦ドレッドノートが最新鋭でした。「超弩級」という日本語ができました。弩級の「弩」はドレッドノートの「弩」です。

    戦艦「薩摩」
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%A9%E6%91%A9_(%E6%88%A6%E8%89%A6)

    超弩級の戦艦「金剛」もイギリスで建造してもらったものです。その設計をもとに、1914年に「比叡」が日本で建造され、1915年に「霧島」「榛名」が建造されました。「榛名」は「霧島」との進水競争に負けたため責任者が自殺しています。一貫して持っていたのは植民地にされる恐怖感です。世界を見渡せば全くそのとおりでした。1898年6月12日に独立したフィリピンは、アメリカの侵略を受け、15年にわたる戦争の末植民地にされました。日米関係を考えるときにその時のアメリカの非道さを見ておく必要があります。

    金剛型戦艦
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%89%9B%E5%9E%8B%E6%88%A6%E8%89%A6#.E5.BB.BA.E9.80.A0.E3.81.AE.E7.B5.8C.E7.B7.AF

    米比戦争
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B1%B3%E6%AF%94%E6%88%A6%E4%BA%89

    因みに、満州事変は、リットン報告書でさえ、満洲は複雑な状況に合って、日本軍の行動に一定の意味を認めています。従って、報告書は日本に名を捨てさせ実を与えています。

    また、北京周辺の駐兵権は、1900年の義和団の乱のあと取り交わされた北京議定書に基づくもので、日本、アメリカを含む8ヵ国に与えられたものです。「中国軍が駐在していた盧溝橋付近で、日本軍の戦闘演習が行われた。」とあたかも日本軍が示威行動を行なっていたかのように印象づける文の構成になっています。

    軍隊の日常業務は訓練ですので、当時も定期の新兵訓練を行なっていたものです。夜間に約80名が空砲を詰めて訓練していたました。その空砲も撃ってはいません。真っ暗闇の夜間に撃ってはもったいない。

    「南京大虐殺」も真の論理に従えばないというほかはありません。

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