では、人間の感情は万国共通であり、日の下には新しいものはないのに、なぜ藤原氏は「もののあわれ」の英訳にそこまでこだわり、欧米人は虫の声を楽しめないほど大自然の美しさに鈍感であると主張するのか?

それは、「国家の品格」を通して、日本の洗練された美学や珍しい情緒こそが「世の中を救える」と藤原氏は主張したいからだ。となると、「日本にしかない情緒」、「日本人にしかない敏感さ」がなければならないわけだ。

日本の芸術は素晴らしい。日本の文学は繊細で巧みな表現に富んでいる。それは誰もが認めることだ。だが、藤原氏の主張を受け入れるために、海外の芸術、海外の文学、海外の人々の根本的な人間性についてでさえ、あまりにも歪んだカリカチュアを飲み込まなければならない。

例えば、藤原氏の考え方では、日本の詩人は大衆の心をありのままに上手く表現しているが、欧米の詩人は、一般の国民と掛け離れた存在であり、珍しい感性を持っていることになる。そんなことはありえない。シェイクスピア、 ディキンソン、 フロスト、 ホイットマン、 テニスン、 エリオット……。皆大衆に理解され、尊敬され、愛されているからこそ、普遍的な名声を得たのだ。

藤原氏の知人が、大自然に刺激され、その刺激がインスピレーションとなって、数学の難問を解けたというエピソードも、「国家の品格」で語られている。しかし、「自分の信仰によってインスピレーションを受けて科学の新たな発明が出来た」というニュートンの主張を、藤原氏は「根拠のない先入観」と馬鹿にしている。「藤原氏の友人は『美しい情緒』によって理解力が高められたが、ニュートンはただの迷信に騙されていた」という差別的な考え方は、あまりにも矛盾していて、受け入れられることにも、真面目に考慮されることにも値しないだろう。