形の多様性に富む世界の文学が、どのように共通した情緒に取り組んできたかを、具体的な例で見てみよう。

先ずは、古今和歌集から一遍の和歌を挙げよう:

世のなかは 夢かうつつか うつつとも 夢とも知らず ありてなければ

(世の中は、夢なのか、現実〔うつつ〕なのか、これは何とも言えない。全てがあってないような存在だからだ)

「よみびとしらず」による歌とはいえ、多くの人が考えてきたことだろう。シェイクスピアも次のような言葉を残している:

We are such stuff,
as dreams are made on; and our little life
is rounded with a sleep.

(我々は夢と同じ物で作られ、この儚い命は眠りに終わる)

古代ギリシア人、ピンダロスの詩では、同じ情が次のように表現されている:

人の命は一日限りの儚いものだ。人間とは、いったい何物だろう?
その存在をどう定義するか?
人は、夢の中の影だ。

最後に、李白の言葉を挙げよう:

處世若大夢  胡為勞其生

(この世にあるのは、大きな夢を見ているようで、儚く短い存在だ。ならば、必要以上に苦労しない方がいいだろう)

和歌を詠んだ詩人は、老荘思想もしくは仏教の影響を受けていたという説はあるが、シェイクスピアはどうかというと、演劇の独特な儚さに刺激されているようだ。脚本家ならではの話だ。

ピンダロスの詩はやはり古代ギリシアの思想に影響されている。格闘技の試合に優勝した若者を一旦褒め称えてから、彼は上記の言葉で締め括っている。どんな名声も儚いものであり、そもそも人間そのものも儚い存在であると。

そして、李白の詩の続きを読むと、酒豪だった彼は、「どうせなら今のうち楽しまなきゃ。酒だ!」と酔っ払って、しばらく道端で倒れてしまうのだ。しかし、目が覚めると、鶯の声を聞き、「このまま大自然に溶け込んでいきたいな」という無我の境地に至らせられる。

それぞれの詩は人生の儚さをテーマにし、その儚さに対する作者自身の「反応」ではあるが、きっかけとなった根本的な「感情」は全く同じだろう。