GONOSEN-II

文学、歴史、時事問題。 とりあえず、私はこう思う。

真珠湾攻撃までの流れ 2 (31)

⑥ 1940年5月に、ヒトラーはオランダ・ベルギー・フランスを侵略した。この時より、アメリカにおいてはヒトラーの著しい戦果に対して、新たな不安が生まれた。イギリスまで侵略されたら、アメリカの東海岸はヒトラーの攻撃にさらされるからだ。

⑦ 日本は逆にドイツの戦果によって大いに得とした。なぜなら、オランダとフランスはドイツに占領されてしまったために、日本海軍の『南進論』の対象だったそれぞれの植民地を守ることが出来なくなったからだ。マレーシアにおけるイギリスの戦力もかなり制限された。

当時の日本の首相は近衛文麿だったが、実際に権力を握るのは陸軍大臣の東條英機に変わりつつあった。この時の東條はフランス領インドシナに圧力をかけ、その領土から中国の南部への新たな日本軍の進出を実行した。

⑧ 1940年8月、東條の大胆な進駐への対策として、ルーズベルト大統領はとうとう飛行機の燃料や金属くずの通商禁止を発令した。ハル議員などは、「やっと禁止令が出たのか」と思ったに違いない。

⑨ 通商禁止に対する報復手段という意味もあり、1940年9月27日に、日本は以前から実現させようとしていた「日独伊三国軍事同盟」に加入する。

1940年末には、日本の歩兵部隊などの訓練に、熱帯地方での戦闘演習が本格的に導入され、マレーシアやフィリピンに対する偵察飛行が行われ始めた。真珠湾攻撃の作戦もこの時期に完成され、陸軍省は、フィリピンなどで使える紙幣を印刷し始めた。

⑩ 1941年4月、「日ソ中立条約」が結ばれ、日本は、いわゆる「北進論」に基づく作戦を諦めた。ノモンハン事件の敗北以後の現実的な考え方だったとも言えるが、ソビエト連邦より唯一恐ろしい相手はアメリカ合衆国だったということも言えるので、「南進論」に対する勢力が増したことは残念な結果の一つである。

⑪ 1941年6月、ドイツはとうとうロシアの国土にも侵入した。日本はドイツと同盟を結んでいたので、日ソ中立条約はこれで廃止されるのではないかと、日本国内では大きな不安は感じられた。だが、なおさら南方の資源を確保するしかないと主張する軍人も多かった。

⑫ 1941年7月、日本はフランス領インドシナの全土を占領した。そこで新しく出来た基地からは、マレーシア、オランダ領東インド、フィリピンへの侵攻も容易になった。

⑬ 1941年8月、東南アジアにおける日本の新たな侵略行為に対して、ルーズベルト大統領は在米の日本資産を凍結し、対日石油輸出禁止を命じた。

⑭ アメリカの石油の輸入無しでは、18ヵ月間しか現状の武力を維持できないことは、日本の大本営の計算によって明らかだった。「その間にアメリカの海軍に止めを刺し、南方の資源を確保できる」というのは大きな賭けに過ぎなかったが、後の大本営の戦略はすべて、この賭けを大前提としていた。

⑮ 東條英機は10月から日本の首相となり、12月8日に真珠湾攻撃が行われた。同時にフィリピンにある米空軍の基地に対する攻撃も実行され、太平洋戦争が開幕を迎えた。

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1 Comment

  1. 芋三郎

    「1941年7月、日本はフランス領インドシナの全土を占領した。そこで新しく出来た基地からは、マレーシア、オランダ領東インド、フィリピンへの侵攻も容易になった」

    公平に観るなら、「容易になったと列強に見られた」と書くべきではないでしょうか。日本が侵略計画に基づいて行動しているというBiasがあるからこのような表現になるのではないでしょうか。当時、列強に対する日本の認識が甘かったというべきものです。当時の日本も列強との戦力さを十分心得ています。

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