19世紀に於ける日本の歩兵操典は、外国、特にドイツ、の軍事思想の影響を強く受け、外国の操典の「直訳」に近いものだった。しかし、日露戦争終結後の明治42年に、ロシアとの対決の教訓などを取り入れて、日本独特の歩兵操典が初めて出来た。その中には、「突撃」も詳しく取り上げられている。

突撃ヲ為サシムルニハ著劍ノ後左ノ號令ヲ下す

突撃ニ 進メ

豫令ニテ右手ヲ以テ木被ノ所ニ就キ銃ヲ提ケ著擔銃ニアルトキハ第四十ニ準シ銃ヲ肩ヨリ下ロシ床尾ヲ少シク地面ヨリ離シ銃口ヲ概ネ右肩ノ前ニ在ラシメ左手ヲ以テ劍シツヲ握リ動令ニテ駈歩ト同要領ニテ前進シ次テ「突込メ」ノ號令ニテ呐喊シ猛烈果敢ニ敵ニ向ヒテ突入シ格闘ス

突撃という戦法やその号令に関する至って簡単な説明だが、大正9年に新しい歩兵操典草案が出ると、「夜間ニ在リテハ喊声ヲ発セサルモノトス」という条件の他に、こんな言葉も冒頭に付け加えられた:

突撃ハ猛烈果敢ニシテ敵ヲ壓倒スルノ気勢充溢セサルヘカラス

そして、昭和15年(日米戦争勃発の一年前)の歩兵操典を見ると、「突撃」に対する日本陸軍の強い執着だけではなく、軍需品など、物資に頼らず勝とうとする「精神論」の面影も強く感じられるようになっている。

突撃は兵の動作中特に緊要なり。

兵は我が白兵の優越を信じ勇奮身を挺して突入し敵を圧倒殲滅すべし。苟も、指揮官若しくは戦友に後れて突入するが如きは深く戒めざるべからず。兵は敵に近接し突撃の機近づくに至れば、自ら着剣す 。

突撃を為さしむるには左の号令を下す。

「突撃ニ 進メ」

「駈歩 前へ」の要領に依り発進し、適宜歩度を伸ばし、「突ッ込メ」の号令にて喊声を発し猛烈果敢に突進し格闘す。之が為突入の稍々前、銃を構う。突撃を発起せば、敵の射撃、手榴弾、毒煙等に会するも断乎突進すべし 。

兵、突撃の要領を会得せば、各種の状況、地形に於いて周到なる教育を行う。此の際、突撃及び射撃を反復互用する動作、手榴弾の投擲に連繋して行う突撃、装面して行う突撃等に習熟せしむるを要す 。

「白兵」とは、「相手の目の白い部分が見える近さで戦う」という意味であり、機関銃などの近代武器の戦闘導入にもかかわらず、日本の指揮官が重視した戦法であった。圧倒的な戦力の差があった日米戦争においても、もちろんそうだった。

「突撃による白兵戦」を重視する戦略思想も、物資に頼らない「精神論」も、どちらも明治時代の「武士道」に由来する日本陸軍の大きなこだわりである。前回触れてきた「兵を死なせないで、勝利を得ることが出来ない」という思想も明治時代から強調されるようになった。ここで注目したいのは、1941年に東條英機が発表した戦陣訓は、この三つのこだわりによる当然の結果だったことだ。

生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ。

「国家の品格」では、「明治時代の素晴らしい武士道・その後の堕落した軍事思想」というふうに、藤原氏は日本陸軍の戦略思想にはっきりとした節目を付けようとしている。残念ながら、これは非現実的な考え方だ。太平洋戦争の玉砕戦に至るまでの過程は長く、その原点は明治時代の「武士道」にある。