GONOSEN-II

文学、歴史、時事問題。 とりあえず、私はこう思う。

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現実を見つめることの大切さ (40)

藤原氏によると、「美しい情緒」、あるいは「美しい情緒」が一つの形を成している「武士道精神」は、六つの理由で世界を救う事が出来る。一つずつ見てみよう。

① 美しい情緒は、普遍的な価値がある。

ある意味では、チョコレートにだって普遍的な価値はあるが、「普遍的な価値=世の中を救う力」ではないのが現実だ。つまり、美しい情緒を育てるだけではなく、人間の心に深く根を張っている「醜い情緒」の対応法をしっかりと考えなければならない。でなければ、患者の心臓病を無視して、美容整形しか勧めないような「やぶ医者」と同じだ。このように、藤原氏の思想は現実性に欠けていると私は思う。

② 美しい情緒は、文化と学問を高める。

それはそうかもしれない。

だが、「美しい情緒」を抱いている人でさえ、自分の主張を裏付けるためなら、歪んだカリカチュアを平気で利用したり、智子イズムに頼ったりすることがあることも見てきている。つまり、「美しい情緒」を身につけていても、時と場合によって、人は文化や学問に対してかなり否定的な態度を取ることがある。

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「美しい情緒」は世の中を救えるのか? (39)

自然に対する感受性。
もののあわれ。
懐かしさ。
家族愛。
郷土愛。
祖国愛……。

藤原氏が挙げる「美しい情緒」は、確かにどれも賞賛すべき感情だ。こうした情緒は、人間一人ひとりの人生を豊かにする効果があることも否定できない。愛する人に囲まれながら、大自然の美を楽しんで、一日一日を大切にする人こそ、真の幸せを手に入れたと言えるだろう。

だが、こうした情緒は「世の中を救える」という考え方は、途轍もなく大げさだと私は思う。

その理由を三つ挙げよう。

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虫の声 (38)

では、人間の感情は万国共通であり、日の下には新しいものはないのに、なぜ藤原氏は「もののあわれ」の英訳にそこまでこだわり、欧米人は虫の声を楽しめないほど大自然の美しさに鈍感であると主張するのか?

それは、「国家の品格」を通して、日本の洗練された美学や珍しい情緒こそが「世の中を救える」と藤原氏は主張したいからだ。となると、「日本にしかない情緒」、「日本人にしかない敏感さ」がなければならないわけだ。

日本の芸術は素晴らしい。日本の文学は繊細で巧みな表現に富んでいる。それは誰もが認めることだ。だが、藤原氏の主張を受け入れるために、海外の芸術、海外の文学、海外の人々の根本的な人間性についてでさえ、あまりにも歪んだカリカチュアを飲み込まなければならない。

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恋愛詩 (37)

せっかくだから、もう一つの例を見てみよう。次の場合は、共通している感情も同じであれば、それぞれの反応まで大して変わらないかもしれない。

まず、和漢朗詠集からだ:

頼めつつ 来ぬ夜あまたに なりぬれば 待たじと思うぞ 待つにまされる

(相手が訪れてくることを毎晩期待しても、結局来ない夜がずっと続いてしまっている。だが、「これ以上待つまい」と決心するのもまた辛いことである)

満たされない愛。その寂しさはいかに耐えがたいことか、これも普遍的なテーマだ。

アメリカの詩人ウォルト・ホイットマンも、自分の心境をこう表現した:

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世のなかは 夢かうつつか (36)

形の多様性に富む世界の文学が、どのように共通した情緒に取り組んできたかを、具体的な例で見てみよう。

先ずは、古今和歌集から一遍の和歌を挙げよう:

世のなかは 夢かうつつか うつつとも 夢とも知らず ありてなければ

(世の中は、夢なのか、現実〔うつつ〕なのか、これは何とも言えない。全てがあってないような存在だからだ)

「よみびとしらず」による歌とはいえ、多くの人が考えてきたことだろう。シェイクスピアも次のような言葉を残している:

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もののあわれ (35)

それぞれの文化が生み出した文学には、形式上の違いはあっても中身にはさほどの違いはない。どこの国の詩歌にも、人生の儚さが歌われ、移り変わる季節の美しさや故郷への懐かしさも歌われる。月・山・動物・虫……、どれも普遍的なモチーフである。

藤原氏は「もののあわれ」こそが、日本人ならではの美しい情緒であり、洗練されたこの美学こそ世の中が必要としているものだと主張する。美しい情緒などが世を救えるかどうかを考える前、とりあえず、「もののあわれ」というのは、そんなに珍しい情緒かどうかについて考えてみよう。

「『もののあわれ』に相当する英単語はなく、平安時代の和歌を英訳しようとする人は大変苦労する」。こうした理屈で、藤原氏は欧米における「もののあわれ」の理解が乏しいと主張している。しかし、そんな主張は、英語と言語学そのものに対する理解の足りなさを表しているだけではないだろうか?

実のところ、「ありがとうございます」や「どういたしまして」も、本来の意味をよく考えれば、ぴたりと当てはまる英単語は無いのだ。だが、「Thank you」と「You’re welcome」で充分間に合っている。藤原氏のように、直訳にこだわることは下手な翻訳法だ。

英語には、二十五万以上の単語があり、これに熟語・専門用語・方言などをあわせると、総単語数は七十五万まで上るとも言われる。世界中の言語の中で最も多い単語数であるとされることもある。それだけの薀蓄を持ちながらも、誰もが経験するはずの「情」を表現できなかったら確かに困る。だが、実際には何の問題も無い。

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「日の下には新しいものは無い」 (34)

旧約聖書には、こういう言葉がある。

世は去り、世はきたる。
しかし、地は永遠に変わらない。
日はいで、日は没し、
その出たところに急ぎ行く。
風は南に吹き、また転じて、北に向かい、
めぐりにめぐって、またそのめぐる所に帰る。
先にあったことは、また後にもある。
先になされたことは、また後にもなされる。
日の下には新しいものはない。

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民主主義 vs ファシズム (33)

四人とも任期が長く、相当な権力の持ち主だったので、アドルフ・ヒトラー、東條英機、ルーズベルト大統領、チャーチル首相を、藤原氏は同じように扱っている。違いがあっても、それは「形式的なこと」であり、独裁は独裁であるそうだ。

これは、一つ・二つの特徴だけにこだわり、それ以外のことをすべて無視する場合、いかに愚かな判断が下されてしまうかがよくわかる例だ。

「みんな果物で、しかも甘酸っぱいから、パインアップル、ブルーベリー、スターフルーツ、ミカンには、違いがあっても、それは形式的なことだ」と言っているような話だ。気候条件と栽培法、食べ方・料理法、細かい栄養素、値段、大きさ、色……、これを全部無視すれば、それは言えることかもしれないが、そうすれば、もはや意味のない発言になってしまうだろう。

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独立と生存のための日米戦争? (32)

藤原氏のように、20世紀の悲劇を「武士道の衰退」のせいにするのは大きな間違いだと私は思う。だが、いつかそれについて触れるとしても、ここで注目したいのは、「日米戦争は独立と生存のためだった」という藤原氏の主張だ。

藤原氏は、真珠湾攻撃後のルーズベルト大統領の演説についてこう述べている:

「ルーズベルト大統領だけが『恥ずべき』とか『破廉恥』などという最大限の形容を用いて憤激して見せたのは、モンロー主義による厭戦気分に浸るアメリカ国民向けでした。『アメリカの若者の血を一滴たりとも海外で流させない』という大統領選での公約を破り、欧州戦線に参戦するための煽動だったのです。計算どおり、国民は憤激し、熱狂し、大戦に参加することが出来たのです」   「国家の品格」 第三章より

またまたルーズベルト大統領についての陰謀論だが、「アメリカと中国の関係」や「真珠湾攻撃までの流れ」を考えれば、これはいかに愚鈍な考え方かはわかる。

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真珠湾攻撃までの流れ 2 (31)

⑥ 1940年5月に、ヒトラーはオランダ・ベルギー・フランスを侵略した。この時より、アメリカにおいてはヒトラーの著しい戦果に対して、新たな不安が生まれた。イギリスまで侵略されたら、アメリカの東海岸はヒトラーの攻撃にさらされるからだ。

⑦ 日本は逆にドイツの戦果によって大いに得とした。なぜなら、オランダとフランスはドイツに占領されてしまったために、日本海軍の『南進論』の対象だったそれぞれの植民地を守ることが出来なくなったからだ。マレーシアにおけるイギリスの戦力もかなり制限された。

当時の日本の首相は近衛文麿だったが、実際に権力を握るのは陸軍大臣の東條英機に変わりつつあった。この時の東條はフランス領インドシナに圧力をかけ、その領土から中国の南部への新たな日本軍の進出を実行した。

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