GONOSEN-II

文学、歴史、時事問題。 とりあえず、私はこう思う。

カリカチュア (3)

「カリカチュア」とは、イタリア語では「誇張する」という意味になる。英語やフランス語でも「本当の様子よりも大げさに表す」という意味で使われ、人物画のジャンルでは、痩せている人をまるで骸骨のように描いたり、鼻が高い人の鼻を大根のように描いたりする画法を「カリカチュア」と言う。ポンペイの壁に当時の政治家と思われる人物の鼻やあごを妙に細長く描いた落書きがあることからして、カリカチュアには、かなり長い歴史がありそうだ。

似顔絵を旅行先で描いてもらうことはよくある話だ。「うん、うん。確かにこれはお前の眉毛だな。鼻もそっくりだ!」。こうして喜んでいる観光客の声がパリやニューヨークの街頭で毎日のようにあがっているだろう。だが、無邪気な遊びではなく、相手の欠点を誇大して描き、あるいは完全に現実離れした悪魔に見せたりする悪質なカリカチュアもある。

ブッシュ政権時のアメリカでは、大統領の顔をサルっぽく描く一こま漫画がやたら多く見られた。「ブッシュは頭が悪い」と批判することが作者の狙いだったに違いないが、それ以外に具体的な政策への批判などはまったく感じ取れない作品が多かった。同じように、クリントン大統領の在任中は、ひたすら好色家らしく描く漫画が流行っていた。

大衆の心を瞬時にふめるのは長たらしい経済論や歴史書ではない。大衆の感情に素早く訴え、怒りと愛国心を煽り立てる手段が必要だ。したがって、「カリカチュア」は政府や軍隊のプロパガンダとして悪用されることが多い。第二次世界大戦中も、全ての参戦国がカリカチュアの力を生かし、国民の戦意を高めた。

ナチドイツによって作られた映像や雑誌、ポスター、郵便切手などは特に見事(?)なものだった。当時のどんな宣伝ビラを見ても、金髪のドイツ兵が勇ましく立ち向かっている相手は、下品そうで色黒いロシア人だ。同じように、清らかな青い瞳をしたドイツ人女性に襲いかかっているのは鼻の曲がった鬼のような顔をしたユダヤ人である。ナチ政権は、何百年もの歴史をもつ、大衆の偏見を上手く利用していたのだ。

大日本帝国も、アメリカ合衆国も、敵国について巧みなカリカチュアをプロパガンダとして自国民に発していた。

日本の情報局企画である「写真週報」という雑誌は、「時の立札」という題で様々な標語を戦時中に紹介していた。昭和18年3月10日には、陸軍記念日の特集があり、「撃ちてし止まむ」という有名な標語が「写真週報」で発表された。この特集の一部として、子供用の塗り絵も二枚載っていた。


一枚目の図下には、次のような言葉が書いてある。

コノオニハアカオニデス。イギリスノハタヲハラマキニシ、アメリカノハタヲフンドシニシテヰマス。ヨクカンガエテカラクレヨンデヌッテゴランナサイ。

二枚目の下には、こんな文がある。

コノテキヘイハ、ニンゲンノカタチヲシタアオオニデス。アメリカノハタト、イギリスノハタヲウデニマイテヰマス。オトウサンヤオカアサンニモヨクキイテカラ、クレヨンデヌッテゴランナサイ。

どちらの絵もシンプルな塗り絵で、決してナストの風刺漫画(ましてやドイツのプロパガンダ映画)ほどの洗練された芸術性はない。しかし、その目的を考えれば、なかなかよく出来ていると言えるだろう。幼い心に「鬼畜米英」の精神を植えつけるのには十分な道具で、「コノテキヘイハ、ニンゲンノカタチヲシタアオオニデス」というところなど、特に子供心への効果的な呼びかけだったのだろう。

アメリカのプロパガンダの中にも、敵兵の人間性を否定するようなものがあった。しかし、日本人を鬼や悪魔として描くよりも、人間以下の存在に例えることが多かったようだ。日本兵を原始人やサルのように描いて、シラミに例えるものまであった。

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1 Comment

  1. 芋三郎

    あの絵1点を付け加えることで、鬼畜米英の精神に転化するほど、時代はその精神で飽和していたでしょうか。10歳の子供にも大人の理解を投影した判断力があります。

    日本人にとってアメリカはフランクリンの国でもありました。子供たちは、尋常小学校の修身の教科書で、フランクリンを模範に公益に尽くすことを学んでいます。イギリスのナイチンゲールからは博愛の精神を学びました。種痘のジェンナーからは志を堅くすることを学んでいます。

    対米英戦争開始後は、昭和17年(1942年)から昭和18年(1943年)発行の修身の教科書から、フランクリンやナイチンゲールやコロンブスなどが消えましたが、ジェンナーは残されました。一斉に変わったわけではないので昭和19年(1944年)の時点でもフランクリンは教えられていたかもしれません。

    「修身」全資料集成 宮坂宥洪編 四季社

    新宿や渋谷の映画館では、昭和16年(1941年)12月7日までアメリカ映画「スミス氏都へ行く」が上映されていました。純朴な青年議員が、リンカーンの唱えた理想を掲げて、政界、議会、土地の利権者、マスコミの堕落に立ち向かうというストリーです。腐敗した政界、機能不全に陥った議会を描いているので、上映にアメリカでクレームが付き、言論の自由、人間の平等を謳っているからでしょうか、ドイツやイタリア、ソ連などでは上映禁止になったとのことです。

    日本では、リンカーンは、修身の題材でした。

    Mr. Smith goes to Washington
    http://www.youtube.com/watch?v=EKwPCbMz5uU&feature=related
    http://en.wikipedia.org/wiki/Mr._Smith_Goes_to_Washington

    元国民生活局長の小金芳弘氏は、16歳の12月6日に渋谷で「スミス」を観ています。10月18日にも新宿で観ていますので二度目です。毎週のように外国映画を楽しんでいます。さすがに、12月8日以降の上映はフランス、ドイツの映画に限られたようです。同氏の13歳から戦中戦後を通して現在までの日記がインターネットにアップされています。
    http://www.geocities.jp/ryuryuiso/Brog/brog.html

    小金氏は昭和17年(1942年)2月13日の日記に蒋介石は見ようによっては名将だと褒めています。

    時の首相鈴木貫太郎はルーズベルト死去に際して次のような談話を発表しています。

    ”鈴木はルーズベルト大統領死去の報道を知ると、同盟通信社の短波放送により、「今日、アメリカがわが国に対し優勢な戦いを展開しているのは亡き大統領の優れた指導があったからです。私は深い哀悼の意をアメリカ国民の悲しみに送るものであります。しかし、ルーズベルト氏の死によって、アメリカの日本に対する戦争継続の努力が変わるとは考えておりません。我々もまたあなた方アメリカ国民の覇権主義に対し今まで以上に強く戦います」という談話を世界へ発信している。”

    鈴木貫太郎
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E6%9C%A8%E8%B2%AB%E5%A4%AA%E9%83%8E#.E3.82.A8.E3.83.94.E3.82.BD.E3.83.BC.E3.83.89

    一般国民は、乃木大将とステッセル将軍の小学校唱歌を聞いて育っています。

    昨日の敵は今日の友 
    語る言葉もうちとけて 
    我はたたえつ彼の防備 
    彼はたたえつわが武勇

    「昨日の敵は今日の友」と戦前は誰でも知っている歌です。

    小学校唱歌 水師営の会見
    http://www.youtube.com/watch?v=46twceOnMtI&feature=related

    日本人にとって、観念上の敵は、敵ながら天晴れであったり、相手にとって不足はないとみたり、あるいは、卑怯と見たりするもので、シラミや害獣のように駆除すべき対象ではありません。そのように教育を受けてきています。鈴木貫太郎の言い方が、子供にも、素直に受け入れられるところだったろうと思います。

    ところで、小金芳弘氏は、父親が政府高官だったということもあって、比較的早くから事情を知っていたせいもあるでしょうが、昭和20年(1945年)9月1日(土)の日記で、もう、こう記しています。

    ”朝学校へ行く。授業開始は10月中旬だそうだ。俺は、何にしてもアメリカへ行きたい。世界の形勢を本当によくつかむには、現地を見て外人と親しくつき合わねばならぬ。明治初年ではないが、日本人はもう一度勉強のやり直しだ”

    時を前後して、ほかの日本人も同じ、戦前から続く日本人の覚悟です。

    芋三郎の会社も、そのような人たちが、パレンバンから引き上げて作った会社です。

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