わら人形論法:

「違います! 私はそんなことは言ってません。私が言いたかったのは、○○だけです」

おそらく誰もがこんなセリフを一度ぐらいはこぼしたことがあるだろう。夫婦喧嘩の最中、友達との言い合いの時、PTAや会社の会議中に……。一度どころか、性格や職業によっては、しょっちゅう言っている人もいるだろう。

これは、相手が自分の言葉を正確に聞き取れなかった時やその内容について勘違いした時のセリフではない。それだったら、「あれ? 違いますよ。7時からではなく、8時からですよ」とか「朝7時ではなく、19時ですよ」のような答え方で充分なはずだ。

同じように、真っ赤な嘘をつかれた時の反応でもない。それだったら、「私が言いたかったのは○○です」ではなく「私が言ったのは○○です」という言葉が出るだろう。

つまり、上のセリフを口にしたのは、自分の話した内容と異なったことを、相手はありのままのセリフのように引用し、元の発言ではなく、その仕立てた偽りの言葉に対して反論を述べたからである。

そんなことをされれば、誰だって怒る。しかし、なぜそんな議論の仕方をする人がいるのだろうか?

それは、相手の主張を大げさに解釈したり、元々なかった意味合いを付け加えたりすれば、反論することが楽になるからだ。無意識にやってしまえば、ただの誤りかもしれないが、わざと相手の言葉を都合の良いように歪めているのであれば、誤りどころか、それは卑怯な詭弁である。無意識な誤りにしろ、意図的な戦法にしろ、この議論法を論理学では「わら人形(ストローマン)論法」と呼んでいるのだ。仕立てた架空の意見を、燃やしやすいわら人形に例えているわけだ。

「えー、ちょっと待ってよ! そんなこと言ってないって!」
「訳わからないこと言わないでよ。私は○○したいだけだ」
「そんな大げさに言わないでくれる?」

わら人形論法で責められた時には、こんなセリフも反射的に出てくるだろう。

風刺漫画:

では、少し話題を変えて、風刺漫画について考えることにしよう。

新聞などで見られる一コマ漫画はルネサンス期イタリアや宗教改革時代のドイツに起源を持つが、19世紀の雑誌「パンチ」(イギリス)と「ハーパーズ ウイークリー」(アメリカ)においては特に洗練された芸術となり、大衆意識を操作する手段となった。

漫画に登場する政治家などの顔をグロテスクなほど大胆に描いたり、擬人化した動物や妖怪を登場させたり、文字を細かく書き込んだり、風刺漫画に使われる題材は一見して多種多様に見える。しかし、逆に言えば、型は決まっていて、描写の仕方や象徴的な要素はどの時代においても大して変わらないのかもしれない。

一つの例として、アメリカの代表的な風刺漫画家トマス・ナストの作品、「アメリカのガンジス川」、を見てみよう。

これは1875年、5月18日の「ハーパーズ ウイークリー」に掲載されたものだ。

当時、全国に広まりつつあった小学校の維持費について、熱烈な議論がなされていた。カトリック系の学校も、公立学校並みの助成金を国から受けるべきかどうか、というのが特に話題になっていたらしい。一般の公立学校でも聖書が授業中に読み上げられる時代ではあったので、宗教そのものが問題ではなかった。しかし、「合衆国の法律よりローマ法王の教令に忠実に従うだろう」と疑われていたカトリック教徒に対する偏見は強かった。

「アメリカのガンジス川」は、カトリック系学校への支援に反対していたナストが描いた漫画だ。その背景には、サンピエトロ大聖堂が美しく聳え立っている。だが、川を挟んで、半分破壊された建物があり、そこには「アメリカ合衆国・公立学校」と書かれている。その上、まるで救助を求めているかのように、学校から揚げられている国旗は逆さまになっている。

漫画の中景には、アイルランド系のカトリック教徒と思われる極悪な男たちが、教師と思われる女性を絞首台へ連れて行こうとしている様子が描かれている。また、男たちの一部は幼い子どもたちを崖から海岸へ下ろし、海から這い上がってくるワニの大群に食べさせようとしている。

前景には、小さい子どもたちを守ろうとしている一人の少年がいるが、今にもワニに襲われてしまいそうだ。少年の表情には、恐ろしさと共に、仲間を守り通す決意が描写され、少年の上着から聖書が半分出ている。このような緻密な工夫で、ナストの数多い傑作の中でも、この絵はとくに注目を集めたらしい。

しかし、この中で特に巧みなのは、ワニ大群の正体だろう。これらのワニをよく見てみると、祭服を着たカトリックの聖職者たちが四つん這いになっており、その細長い帽子がワニの口になっている。カトリック系学校の資金援助を反対するナストの天才的な宣伝工作である。

ところが、資金援助の賛成派には、プロテスタントの聖職者も実際に加わっていて、援助を反対する人の中にはカトリックの信者もいたはずだ。つまり、両方に騒がしい「過激派」がいたにもかかわらず、冷静な議論もなされていたのだ。

「ちょっとやりすぎだな。私も国のお金をカトリック学校の援助にすることに反対だけど、祭司たちをワニに例えるなんて……」

「アメリカのガンジス川」を「ハーパーズ ウイークリー」で見た多くの人々はそう思ったに違いない。そして、風刺漫画の危険性はそこにある。つまり、風刺漫画は、情熱的に何かを訴えることには向いていても、冷静な判断を必要とする問題解決の力にはならない。場合によっては、まったくのカリカチュアに成り下がることもある。