「第二次世界大戦」、「日米戦争」、「太平洋戦争」、「大東亜戦争」……。

同じ戦争を 指しているとはいえ、これだけ色々な呼び方がある理由の一つは、彼の大戦について情熱的な議論が未だに為されていることだろう。

だが、これから注目したいのは、大きな歴史解釈の問題ではなく、どんな政治思想の人でも、どんな世代の人でも、どんな国の人でも、「確かにそれは悲劇だ」と思える一つの事実だ。

つまり、実際に帰還した人数よりも、実に多くの日本兵が日米戦争から生きて帰ってくることが出来たはずだ。しかし、彼らは自ら(あるいは指揮官に強いられて)玉砕を選んでしまったのだ。これは「悲劇」以外の何物でもない。

玉砕した兵隊の数は、間違い無くおびただしい数字ではあるが、正確な計算はなかなか難しい。例えば、それぞれの玉砕戦の死者数を単純に合計することは一つの計算法だろうが、そのやり方だと、普通に戦って死んだ人と、勝つすべがなくなっても最後まで戦い続けた玉砕者の見分けがつかない。

しかし、連合軍が終戦までに捕らえた捕虜の人数は細かく記録されているので、日本人捕虜とドイツ人捕虜の数を比較することによって、日本兵の玉砕の無残さを大まかに把握できる。

例えば、日米戦争勃発から最初の3年間の内に捕らえられた日本兵は、1,990人だった。ところが、同じ時期の1944年8月という一ヵ月間だけで、ドイツ兵は50,000人も降参して捕虜となった。

その頃、日本軍は「捕らえられる」より、敵兵を「捕らえる」立場にあったことは、その3年間に捕らえられた捕虜の少なさの大きな原因だろう。しかし、他にも理由がある。アメリカ軍による反撃が勢力を増してくると、真珠湾攻撃や「バターン死の行進」を恨み、日本兵が全滅するまで戦い続ける米陸軍部隊も中にはあった。降伏すると見せかけて、仕掛け爆弾や機関銃で連合軍を襲ってしまう日本兵の話も多数あったことも捕虜を取る警戒心を強めたそうだ。

しかし、戦争は3年目に入り、アメリカ軍が戦場での主導権を完全に握ると、日本兵を捕虜にすることに対する考え方が大きく変わった。要するに、「捕虜の協力を得れば、敵と戦う時間を短縮して、我々の負傷者数を抑えることが出来るはずだ」という理屈で指揮官が歩兵たちに呼びかけた。それとともに、日本の部隊が降伏するように直接訴えられる日系人などがすべての師団に配属された。

それでも、終戦まで捕らえられた日本兵は50,000人に満たなかったと概算されることがある。前述のように、これは1944年8月の一ヵ月分のドイツ人捕虜とほぼ同数である。アメリカ本土に転送され、五百ヵ所以上の施設に収容されたドイツ人捕虜の最終的な人数は、420,000人を超えた。もちろん、ヨーロッパ各地にもドイツ兵を収容する施設があったので、実際のドイツ人捕虜数はこれよりはるかに多かった。

捕虜になることに対するドイツ兵と日本兵の考え方には、著しい違いがあったことは言うまでもない。「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」。1941年1月に公布された「戦陣訓」の言葉は、どれだけ日本兵を玉砕へと追い詰めたかはうかがえるだろう。

だが、戦陣訓だけが極端な考え方を引き起こしたとは思えない。その思想のルーツをたどってみることにしよう。次回は以前に触れてきたイギリス人観戦武官のイヤン・ハミルトンと彼の著書『日露戦役観戦雑記』を詳しく参考にしよう。