「国家の品格」をもう一度引用しよう。論理だけでは人間社会の様々な問題を解決することができない理由について、藤原氏が語っている所だ。 (第二章より)

『先ず第一は、人間の論理や理性には限界があるということです。すなわち、論理を通してみても、それが本質をついているかどうか判定できないということです。』

要するに、どんなに合理的な提案でも、それは現実に通用するかどうかはわかりかねる。だったら、合理的な解決法だけを求めたり、むやみに論理に頼ったりしてはならない。

なるほど。それは確かにそのとおりだ。欧米の文化には、藤原氏が言うほど論理にこだわる傾向が本当にあるのであれば、それは大変なことかもしれない。誰もがその危険性を認めるだろう。

さて、自分の子どもの可愛さしか見えなくなってしまった人を「親馬鹿」と言い、釣りにはまってしまっている人を「釣り馬鹿」と言う。こんな言い方にちなんで、「欧米人は論理にこだわり過ぎだ」という藤原氏の批判を『「論理馬鹿」仮説』と呼ぶことにしよう。

しかし、幸いなことに、藤原氏のこの主張は、カリカチュア交じりの智子イズムに過ぎない。先ず私自身のある経験を挙げよう。

私は小学生の時から算数や理科の勉強より国語や社会の授業の方が好きだった。あの頃から私は完全に文系の人間だったようだ。だが、受けてきた授業の中で特に印象に残っているのは、大学で受けた数学教授による講義だ。

その日、教授は「10+3は?」といきなり聞いてきた。「やれやれ、文系の私たちをからかっているんだね」と私は先ず思った。だが、同級生の一人が「13だろう……」と答えると、教授はにっこりと笑いながら話し続けた。

「まあ、普通に考えればそうだけど、10+3=1ということもありえないだろうか?」

その時、私は、「ああ、そうか。時計だね」と思い、手を挙げてみたが、悔しいことに教授は他の人を指してしまった。

時計上の算数では10+3=1(十時に始まった授業が三時間続けば、終わる時刻が午後一時だ)というのが確かに教授の求めていた答えだった。そして、その例の次に、数学に於ける「相対性」というテーマで教授が講義をはじめた。単純に考えがちな算数でさえ、それを裏付ける「論理」を変えてしまえば、実に見事な多様性が生じる。彼はこういう話が好きだったらしく、とても嬉しそうに話していたことを今も覚えている。

ちなみに、教授はこのような話もしてくれた覚えがある。

• どのような主張にも前提があり、その前提の定義次第で最終的な結論は決まってしまっている。

• この論理の「相対性」を悪用し、思うがままに研究の結果や議論のいきさつを操ってしまうことができるので、そんな詭弁家には要注意だ。

• 当然のように受け入れられている仮説でさえ、根本的な前提に問題が発見されれば、その常識が引っくり返されることがよくある。したがって、学者も、社会人も、物事を柔軟に考える必要がある。

どうやら、この教授にとっては、数学・論理学は教室や研究所で使う仕事の道具だけではなかったようだ。それどころか、そういう学問は彼の日常生活や対人関係にまで影響を与えていたのだ。

ここで強調したいのは、教授の性格だ。つまり、論理学などが完全に染み込んだ人物であったにもかかわらず、カチカチな「近代的合理精神」しか通用しないようなロボットではなかった。がむしゃらに理性だけを追い求める頑固な性格でもなかった。逆に、論理による相対性を充分認めていた上で、自分自身に考え方の柔軟性を求め、私たちにもそれを伝えようとしていた。

「非合理は確かに好まない。だが、ある物事が合理的だと思われても、議論の前提を確認し、なおさら注意深く考える」。藤原氏の説く「論理馬鹿」ではなく、こういう考え方こそが欧米に於ける理想的な思考法だ。

つまり、論理を通したり、形式的誤謬や非形式的誤謬を避けたりする以外にも、欧米の論理学には、大切な役割がもう一つある。それは、前提を常に意識させ、現実的な議論をはかどらせることだ。

「ああ、なるほどね。まあ、言っていることはわかるよ。だけど、もし○○が本当に△△じゃなかったら、話はぜんぜん違うだろう。とりあえずそのへんを確認しましょう」

これは、相手の話の辻褄が合うことを認めながら、前提の確かさを確認させようとする反論のセリフだ。会社の会議室、学校の校庭、裁判所、議会(国会)議事堂、スーパーマーケットの駐車場……。どこへ行っても、何かしらの形で聞こえてきそうだ。藤原氏が描く「論理馬鹿」が本当に存在していたら、人間社会では生きてはいけないだろう。ましてや、それが欧米社会全体の基本的な考え方であるとは、ありえないだろう。

「論理馬鹿」になっているどころか、論理とまったく関係がない類の判断を欧米人は日々下している。藤原氏のカリカチュアに反論するため、ここまで当たり前のことを言わなければならないことはおかしいとも思うが、欧米人は勘や感情、とっさのひらめき、予めの道徳的信念、先入観や偏見などで、素早く物事を判断することがある。論理的な過程を踏まえた上での判断より、そのような形で判断を下すことは圧倒的に多いのではないだろうか? 人間なら誰だって生まれ持った性質だ。