GONOSEN-II

文学、歴史、時事問題。 とりあえず、私はこう思う。

傷兵たちが愛した桜

先週、花見のつもりで訪れたのは「国立病院機構・箱根病院」だった。もちろん私はカメラを手にしていたが、病院そのものの歴史が面白くて、花の写真より、建物の写真をたくさん撮った。

「箱根」病院とはいえ、そのルーツは東京都渋谷区にある。明治40年(1907年)、日本で初めての「廃兵院」が陸軍省所管で「東京予備病院渋谷分院」の敷地内に設置された。明治40年という年号からして、初期の患者は日露戦争中に傷痍を受けた兵士たちだったと思われる。

翌年には豊島区巣鴨に移転して、所在地は28年間もそのままとなった。この時代に「廃兵院」という呼び方は「傷兵院」に改められ、陸軍省から内務省に移管された。

小田原市風祭(箱根湯本駅から車で5分)に移転したのは、昭和11年(1936年)である。支那事変勃発より一年前の出来事だ。

昭和14年(1939年)、「軍事保護院」に改称され、翌年の昭和15年には「傷痍軍人箱根療養所」を併設した。この時、支那事変による戦傷脊損患者を集約し、全国唯一の「国立脊髄療養所」に分類された。

太平洋戦争終結の年である昭和20年(1945年)からは、「国立箱根療養所」に再び改称され、(今度は厚生省の所管で)脊損医療を担当する施設(100床)のまま、傷兵たちの治療を提供し続けた。

昭和40年(1965年)に完成した 「西病棟」 の現代の様子を写真で紹介する前に、当時の入院患者の生活ぶりが伺える数枚の写真と絵画をご覧いただきましょう。病院の廊下に飾ってある歴史資料の一部だ:

では、最後に、私が撮った「西病棟」の写真を紹介する。

西病棟(46床)は、長期入院患者が家族と一緒に暮らせるアパートのような施設だった。その周りを歩きながら、私は生い茂る雑草や壁に張り付いている蔓草の非常に「野性的」な様子がだんだん好きになった。西病棟は、いずれは建て壊されるだろうが、「出来れば、このままにしてほしいな」とまで思うようになった。「リフォームして、再利用する」のではなく、「きれいにして、博物館などにする」のでもない。

このまま自然の力に任せて、少しずつ朽ちてゆく姿をじっくり観察したい。そんな思いがした。

片付けず、けじめをつけず、時々訪れて、大切な歴史の「余韻」を最後まで聞いてあげたい。

傷兵たちが住んだ家、傷兵たちが愛した桜……。まだまだ何かを語ろうとしている気がしてならないからだ。

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1 Comment

  1. 国立箱根療養所については、写真家の樋口健二さんが著書の中で紹介していました。まだ元兵士たちが入院していたころの写真と、現在の半ば廃墟となった療養所棟との写真を並べた興味深い本です。ぜひご覧になってみて下さい。

    樋口健二著『はじまりの場所』こぶし書房
    http://amzn.to/l0Zfet

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