アリストテレスがわかりやすく解き明かした「推論の世界」、これこそが論理学の活躍する領域である。具体的に言えば、論理学の目的は推理の過程を正しく定めることだ。

推理の過程に過ちがあれば、どんなに理屈をこねても、真理を導き出すことは出来ない。これを認めたアリストテレスは、正しい論法を教えるだけではなく、さまざまな誤った論法について後世の哲学者に警告を与えた。

アリストテレス(あるいは後の哲学者たち)が指摘した「誤った論法」は沢山あるが、代表的なものをここで見てみよう。

後件肯定の虚偽: この論法を「もし○○であれば、△△である。実際に△△である。だから○○である」と表記してもいいだろう。言葉に置き換えれば、次のようになる。「太郎が自分の妻を殺したならば、彼は悪人である。太郎は悪人だ。だから太郎は妻を殺したのである」。明らかにおかしい推論だ。太郎が悪人だとしても妻だけは愛しているかもしれない。

前件否定の虚偽: これを「もし○○であれば、△△である。実際には△△ではない。だから○○でもない」のように表記して、次のように言い換えよう。「太郎が自分の妻を殺したならば、彼は悪人である。実際には妻を殺していない。だから太郎は悪人ではない」。これもおかしい。妻を殺していなくても、他の意味で太郎は悪人だというのは充分ありえる。

媒概念不周延の虚偽: 「一部の○○は△△である。一部の△△は××である。だから一部の○○は××である」。つまり、「一部の新生児は女性である。一部の女性は妊婦である。だから一部の新生児は妊婦である」。ありえない!

しかし、次の例はどうだろうか? 「一部の政治家は嘘つきである。一部の嘘つきは泥棒である。だから、一部の政治家は泥棒である」。確かに嘘つきの政治家は世の中に多い。公金を横領する政治家も残念ながら珍しくない。一見して、この推論ならば何となく通っている気もするが、やはりこれも論法として誤っている。嘘をついている政治家と公金を横領している政治家はきれいに分かれているのかもしれない。

以上三種類の論法は、推理過程上の形式的な問題があるため、「形式的誤謬」と呼ばれている。だが、この他にも、アリストテレスは議論中の内容に当てはまらない論法や推理の前提に問題がある論法などを誤った論法として指摘している。

例えば、「道路の真中に立ち、通行中の車を差し止めることは迷惑である。お巡りさんは道路の真中に立ち、通行中の車を差し止める。だからお巡りさんは迷惑である」。これは形式上の問題というより、「道路の真中に立ち、通行中の車を差し止めることは迷惑である」という前提には例外があることを無視しているのが問題だ。「例外の撲滅」と呼ぶこの誤った論法の他に、前述のわら人形(ストローマン)論法などもあり、この類は「非形式的誤謬」と呼ばれている。

他の例も見てみよう。

多数論証: 「皆駄目だと言っているから駄目なんだ!」。しかし、皆が間違えているのかもしれない。

同情論証: 「先生、お願いだから……。この授業の単位を取らないと、僕、卒業できなくなる!」。 可哀想だが、仕方がない。落第したくなかったら、宿題を提出すれば良かったじゃないか。

論点のすりかえ: 「だって、宿題をやろうと思ったら、妹が部屋に入ってきて、勉強の邪魔をした。あいつはいつもそうなんだ……」。こんな時に、妹の話をされても……。

脅迫論証: 「こっちから先に攻撃しないと、相手は何をしてくるかわからないぞ! 出陣だ!」。気持ちはわかるが、よく考えてから行動した方が良いだろう。

対人論証: 「あいつが言っていることは嘘に決まっている。だって、右翼(左翼・弁護士・ユダヤ人……)じゃないか?」。でも、右寄りの人だって(左寄りの人だって、理屈っぽい弁護士だって)まともなことを言う時がある。とりあえず、話を聞こう。ちなみに、人種差別は止めようよ。

さて、こうした誤った論法は何十種もあり、正しい論法と一緒に勉強されることが論理学の真髄だ。