GONOSEN-II

文学、歴史、時事問題。 とりあえず、私はこう思う。

「国家の品格」について (1)

私は国際結婚がどうのこうのという話が嫌いだ。
私はアメリカ人。
妻は日本人。
それだけのことだ。

かといって、「結婚」について話し合うのは嫌ではない。男女関係、子育て、老後の準備……。どれも万国共通の話題であり、世代を超えて誰もが興味を持つことだ。

しかし、「国際」という二文字が頭につくだけで、私はうんざりしてしまう。その理由には、私が結婚早々に受けてしまったトラウマがある。「トラウマ」と呼ぶのは大げさかもしれないが、とにかく、それは妻の友人(ここでは智子と呼ぶことにしよう)によるものだ。

学生の頃から妻と仲が良かった智子は、異常なほど私達の「国際結婚」にこだわっていた。たまたま結婚した男女としてではなく、私達夫婦をどうしても「一人のアメリカ人」と「一人の日本人」として見ていたようだ。そのせいか、「日本人は○○だけど、アメリカ人は○○だよね……」というふうに、智子はどんな話題の会話をしていても、「アメリカ人と日本人の違い」に話を結び付けようとした。

「アメリカ人は皆フレンドリーだよね」
「やっぱり日本人は真面目だと思う?」
「アメリカ人は皆遊び上手なんでしょう?」
「だけど、日本人はよく働くと思わない?」

どうやら、智子にとっては、無愛想なアメリカ人(目の前にいたのに……)はありえないもので、怠け者の日本人も考えられなかったようだ。

「いやー、同じアメリカ人でも、いろんな人がいるからね」

最初のうち、私はこうして智子の主張に抗議を試みたが、聞き入れてもらえないことがわかると、彼女を説得しようとすることを早く諦めた覚えがある。

新婚のあの時代から何年も経ってしまい、妻でさえ智子との付き合いがほとんど年賀状だけになってしまったようだ。だが、「アメリカ人は○○だ。日本人は○○だ」のような発言をする人のことを、我が家では未だに「智子」と呼んでいる。まあ、正直に言うと、私がそう呼んでいるだけかもしれない。とにかく「智子」という固有名詞は、ある独特の考え方の代名詞に化したのである。ここではその考え方を「智子イズム」と名づけよう。

さて、前置きが長くなったが、これより本題に入る。

私が藤原正彦氏の「国家の品格」をはじめて手にしたのは、同書が世に出てから数年経った後のことだった。詳しい内容についてはわからなくても、題名からして面白そうだと思い、「いつか読もう」と前から意識はしていた。地元の図書館では貸し出し中で借りられない時期が長く続いたことも印象に残り、知り合いに勧められることも何度かあった。そういうこともあり、「国家の品格」をやっと手にした時、私は期待を膨らましながら表紙をめくり、最初のページを読んでみた。

藤原氏の前書によると、日本では、義理や貸し借りなどが社会人の常識であり、以心伝心やあうんの呼吸が日本人同士のコミュニケーションを円滑にしている。著者の言うには、これはすべて独特な国民性によることであり、日本人ならではの素晴らしい話だ。しかし、アメリカはどうかと言うと、すべてが論理の応酬で決まってしまい、アメリカ人は前述のような情緒や常識に乏しい。言うまでもなく、これは望ましくない事態である。

「何だこれ? 智子じゃないか?」

藤原氏の前書を読んでみた私の第一印象はそれだった。読み続ければ、こんな内容がどんどん出てきそうな気もして、いきなりがっかりした。

ここで一旦話を戻して、智子イズムについて詳しく考えよう。

まず、はっきりさせておきたいのは、私が智子イズムと呼んでいるのは、経験の浅さや知識の足りなさから物事の真相を勘違いしてしまうことではない。こうした「情報不足による判断ミス」と違い、智子イズムは具体的な知識の有無とは関係ない。言い換えれば、智子イズムは、思考の内容に欠点があるというより、思考法そのものがおかしい。

例えば、私が智子にいくら抗議をしても、彼女はその話を「ふーん」と聞き流し、次に会う時はいつものような発言を繰り返していた。彼女には(せめて空港嫌いな私よりは)海外旅行の経験が何度もあり、人並みの教育も受けていた。だが、それにもかかわらず、彼女はあえて、「アメリカ人は皆○○だ、日本人は皆○○だ」という非常に大胆な考え方しかしなかった。つまり、智子は無知だったのではなく、持っていた知識の処分が悪かった。こういう意味で智子イズムは思考法の問題である。

智子イズムの代表的な特徴は、自分と相手の個性や考え方を素早く、且つ大胆に定義することだ。そうすることによって、自分の意見を好きなだけ主張できるようになるので、智子イズムはとても便利な考え方である。そして、便利だからこそ、経験や知識にかなりの薀蓄があり、他の場面では実に巧みな思考を用いる人でも、時と場合によって、智子イズムをあえて使うことがある。

もちろん、この便の良さを得るには、様々な詳細を無視し、深いニュアンスのある理解を犠牲にしなければならない。だが、智子イズムは単純な考え方だからこそ、不都合な事実に焦点を当てず、自分の主張の正しさを裏付ける情報にだけピントを合わせることができる。一流の知識人だろうと、弁論の初心者だろうと、これは否定できない魅力なのだ。

しかし、フレンドリーではないアメリカ人が山ほどいることや、遊び上手な日本人も沢山いることが示すように、智子イズムが導き出す結論には、乏しいステレオタイプに過ぎないものが圧倒的に多い。「アメリカ人は皆フレンドリーだ」というのは、何の役にも立たない偽知識であり、智子イズムはこうした幻惑ばかりを生み出す。

とはいえ、智子の例は大した話ではない。「またそんなことを言ってるのか?」と私はあきれていたが、彼女はそれでも立派な人だった。

ところが、智子イズムという思考法は、これより大きな問題を引き起こすこともありえるのだろうか? 「国家の品格」を読みながら「ありえる!」と強く思い始めた私は、先ずそのことに焦点を当てたいと思う。

だが、それだけではない。「国家の品格」を読めば読むほど私は驚いた。著者は頭が良く、教養もあり、立派な目標を持って執筆したはずではあるが、殆どどのページを見ても、欧米の文化についての不理解が目立ち、氏の歴史観もかなり疑わしく思えた。藤原氏の最終的な結論については、「こんな考え方はむしろ危険ではないか」とまで思うように至ったのである。

誰にだって無知な部分や先入観がある。智子の世間話程度だったら見てみぬ振りをするのは、かえって良い対処法かもしれない。だが、「国家の品格」の場合は違う。数多くの人が読んだだけあって、反論もなくてはならない。

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2 Comments

  1. Mitzi Morris

    とても興味深い内容をありがとうございます。

  2. 芋三郎

    空襲の被害など、精神的に楽ではないことに取り組まれて、心より、敬意を表したいと思います。

    「国家の品格について」の記事を興味深く拝見しました。

    「智子イズム」も興味深いところです。

    一方、智子さん自身については、智子さんは、人間的であるように感じました。

    「寒いね」と話しかければ「寒いね」と答える人のいるあたたかさ:俵万智

    あるいは、ひねりを入れて、「アメリカ人は皆遊び上手なんでしょう?」「そうだよ。僕を見なよ。」というのも面白かったように思います。でも、そういう気分にもならない、言うに言われない微妙な感情(情緒)があったのだろうと思います。

    そういう感情は、真の論理で説明できるのか、あるいは、ただ単に、「分かるでしょ?」「うん、分かる分かる。」と言葉を省く他ないのかもしれません。

    ところで、アメリカ人をフレンドリーで括るのは、智子の誤りです。フレンドリーなのはオーストラリア人です。

    フレンドリーなオーストラリア人:http://blogs.yahoo.co.jp/imosaburojinemon/40548859.html

    「国家の品格」武士道国家日本と大英帝国
    http://blogs.yahoo.co.jp/imosaburojinemon/40440036.html

    「国家の品格」の日中戦争
    http://blogs.yahoo.co.jp/imosaburojinemon/40623916.html

    「国家の品格」と気分
    http://blogs.yahoo.co.jp/imosaburojinemon/40644131.html

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