旧約聖書には、こういう言葉がある。

世は去り、世はきたる。
しかし、地は永遠に変わらない。
日はいで、日は没し、
その出たところに急ぎ行く。
風は南に吹き、また転じて、北に向かい、
めぐりにめぐって、またそのめぐる所に帰る。
先にあったことは、また後にもある。
先になされたことは、また後にもなされる。
日の下には新しいものはない。

「何となく悲観的だな」と、この箇所を好まない人はいるようだが、私は昔から気に入っている。非常に現実的な思想だからだ。

しかも、「天(あめ)が下のすべての事には季節があり、すべての業には時がある」という有名な言葉も、この後に続く。「悲しむに時があり、踊るに時がある」、「愛するに時があり、憎むに時がある」、「戦うに時があり、和らぐに時がある」などがその一部だ。つまり、「日の下には新しいものはない」という考え方は、悲観的どころか、人間のなすべき業には目的も意義もあり、大いに励むべきであることを訴えている。ただ、「これは新しい! これは珍しい!」と考えることは、高慢な態度と傲慢な行いに繋がるから危険だ。

文学評論家の中には、小説の筋立ては非常に限られていると主張する人がいて、その筋立ては合計三パターン、七パターン、三十六パターン……、といった具合にいろいろな考え方がある。「人間vs人間」、「人間vs自分」、「人間vs自然」、「人間vs神」などという大雑把な分野に、どの物語も当てはまると主張する人もいれば、「愛、裏切り、追求、脱出、和解……」などと、テーマ別に詳しく分類する人もいる。

ある意味、こんな評論はまったく意味のない考え方だ。すべての音楽だって、「ド、レ、ミ、ファ、ソ……」という至って限られた要素で出来てはいるが、その組み合わせは実に無限である。「物語」についても同じことが言えるだろう。

ところが、小説の中だろうと、現実の世の中だろうと、人の経験し得る事は、どの世代においても、どの国においても、基本的に共通していることを理解することは大切である。そういう意味では、評論家たちの思想も「日の下には新しいものはない」という考え方に近いかもしれない。

では、ここで私が付け加えたいのは、経験の種類が限られているだけではなく、その経験を通して呼び起こされる「感情」も大して変わらないことだ。

ある人種の抱く感情には、他の人種の抱く感情と「根本的な違いがある」と主張することは、「日の下には新しいものはない」原則を否定することになり、傲慢どころか、何となく馬鹿げている気までする。まるで、イタリア人の体によるスパゲッティの消化と、中国人の体による酢豚の消化に大きな違いがあると言っているようだ。

つまり、どこの国の人も、食事をしたり、病気になったり、恋人を愛したり、友人の死を悲しんだり、いずれは自分も死ぬ。そして、どこの文化にも、これらのことに対する習慣が古代より築き上げられている。食事の作法、交際と結婚の決まり、葬式のしきたりなどがその代表的な例である。だが、どの民族も、食べる時の嬉しさや満腹感は変わらない。病気の苦しみも変わらない。愛の喜びと不安も変わらなければ、死別の辛さも変わらないだろう。

「もののあわれ」などは日本人ならではの珍しい情緒であり、「このような情緒こそは世の中が必要としているものだ」と、藤原氏は『国家の品格』で主張している。

だが、「もののあわれ」などは、本当に氏の言うほど珍しいものなのだろうか? もし万国共通の情緒であるなら、そんなものは本当に世界を救えるのだろうか?