GONOSEN-II

文学、歴史、時事問題。 とりあえず、私はこう思う。

民主主義 vs ファシズム (33)

四人とも任期が長く、相当な権力の持ち主だったので、アドルフ・ヒトラー、東條英機、ルーズベルト大統領、チャーチル首相を、藤原氏は同じように扱っている。違いがあっても、それは「形式的なこと」であり、独裁は独裁であるそうだ。

これは、一つ・二つの特徴だけにこだわり、それ以外のことをすべて無視する場合、いかに愚かな判断が下されてしまうかがよくわかる例だ。

「みんな果物で、しかも甘酸っぱいから、パインアップル、ブルーベリー、スターフルーツ、ミカンには、違いがあっても、それは形式的なことだ」と言っているような話だ。気候条件と栽培法、食べ方・料理法、細かい栄養素、値段、大きさ、色……、これを全部無視すれば、それは言えることかもしれないが、そうすれば、もはや意味のない発言になってしまうだろう。

同じように、上記の四人を一緒にするには、無視しなければならない事柄が実に多い。政府・政権そのものの成り立ちの違い、権力を支える組織と制度の違い、指導者の権力の制限の違い、指導者の目標や思想の違い、指導者に対する国民の気持ちと考え方の違い、国の憲法・法制度・経済体制の違い、権力分立の有無の違い……。「形式的な違いしかない」と主張するには、このような詳細を省略しなければならなく、それは実に無責任な発言であるとしか言いようがない。

民主主義とファシズムについては、藤原氏はこのような発言もしている:

「戦後、連合国は第二次世界大戦を『民主主義対ファシズムの戦争』などと宣伝しましたが、それは単なる自己正当化であり、実際は民主主義国家対民主主義国家の戦争でした。どの国にも煽動する指導者がいて、熱狂する国民がいました」

「国家の品格」第三章より

正直に言うと、ファシズムと民主主義の違いを否定しようとする藤原氏の考え方は、真面目に答えるにも値しないと思う。

だが、ナチスなどに立ち向かうことは、戦後からどころか、戦前から「ファシズムと民主主義の対決」として考えられていたことを証明するチャーチル首相の演説をあげよう。

1938年に、アメリカとイギリスの両国で放送された演説の一部だ。演説のテーマは、独裁と戦うために、「アメリカとイギリスが為すべき備え」である:

「武力を高めるだけではなく、我々は思想面においても敵に答えられる力を同時に身に着けなければならない。『ナチズム対民主主義』のように、『哲学の争いにまで巻き込まれてはならない』と主張する者はいるようだが、そんな争いなら、既に始まっているだろう。だが、精神面・倫理面における戦いにこそ、我々自由国は大きな力を発揮できるに違いない」

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1 Comment

  1. 芋三郎

    それぞれの戦争があったところ「民主主義対ファシズム」などという思想的善悪の戦争にしてしまったところが大きな問題だろうと思います。それをブレットさんも疑いもなく引き継いでいるように見えます。

    制度的かつ実質的に権力が一人に集中した度合いから言えば、スターリン、ヒットラー、ルーズベルト、チャーチル、蒋介石、東條英機の順番になるのではないでしょうか。蒋介石は個人的には独裁者ですが毛沢東を介したソ連やアメリカの意向に従わざるを得ないところがありましたのでルーズベルトより独裁度は低いことになります。ルーズベルトやチャーチルは独裁者ではありませんが、制度的に一定の独裁権を与えています。日本語では独裁とは言いませんが権力の集中度は東條英機より高いことになります。

    東條英機は、昭和19年(1944年)サイパン陥落後辞任させられましたが、辞任させられる独裁者というのはいません。

    帝国憲法下では首相と各大臣は同格です。権力も(司法)、(衆議院(予算)・貴族院)、(内閣・行政)、(枢密院・条約)に別れていて、軍(陸軍・海軍)は統帥権の問題で力を付けました。それぞれ顔立てるという関係です。

    因みに、貴族院議員には何人かの台湾人、朝鮮人議員がいました。また、女性参政権は昭和6年(1931年)衆議院は通過しましたが、貴族院で否決されて廃案になりました。敗戦後昭和20年(1945年)10月10日には女性参政権賦与の閣議決定がなされています。

    戦争指導会議は、内閣総理大臣、陸軍大臣、陸軍参謀総長、海軍大臣、海軍軍令部長が同格で出席します。東條英機は、このうち、最初の三つを兼務したものです。

    議会も機能していました。選挙については、修身の教科書で、明治以来一貫して、同じことを述べています。

    「議員を選挙するには、候補者の中から、おこないがりっぱであり、しっかりした考えを持っている人をえらんで投票しなければなりません。自分だけの利益を考えて投票し、また、他人にしいられて、適当とは思われない人に投票することがあってはなりません。」

    その教えに従って、日米開戦後の昭和17年(1942年)4月30日に行われた総選挙では、翼賛選挙と言われましたが、466人中85人の非翼賛議員が当選しています(総得票率35%)。その中には、先に、反軍演説で衆議院を除名になった斉藤隆夫も兵庫5区の最高点で当選しています。

    第21回衆議院議員総選挙(翼賛選挙)
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC21%E5%9B%9E%E8%A1%86%E8%AD%B0%E9%99%A2%E8%AD%B0%E5%93%A1%E7%B7%8F%E9%81%B8%E6%8C%99

    司法も機能していました。

    鹿児島2区では、翼賛選挙は自由で公正な選挙ではなかったとして、落選議員から選挙無効が提訴されました。審議の結果、大審院は、昭和20年(1945年)の3月1日に選挙無効の判決を下しています。その判決に従って同年3月20日にやり直し選挙が行われました。

    今の日本より民主主義の理念についてガッツがありませんか。スミス氏もワシントンなんかに行かないで、兵庫5区か鹿児島2区に来ていれば、卒倒することもなかったろうと思います。

    鹿児島2区選挙無効事件
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B9%BF%E5%85%90%E5%B3%B62%E5%8C%BA%E9%81%B8%E6%8C%99%E7%84%A1%E5%8A%B9%E4%BA%8B%E4%BB%B6

    修身の教科書は、また、理由もないのに大切な選挙権をすてて投票しないことがあってはならないと諭しています。それを受けてと言えますが、日本語が分からない内地在住の帝國臣民(朝鮮人)の便を図って、昭和5年(1930年)から、朝鮮文字(ハングル)の投票も有効とされました。

    これは、1925年に普通選挙法が施行され、内地に住む一般男子(朝鮮人・日本人を含む)に選挙権が広げられましたが、朝鮮人のなかには日本語の読み書きが出来ない人が多く、ハングルで投票し、無効となる票が多かったため取られた措置です。ハングルを添え書きした選挙ポスターを作った候補者もいます。昭和7年(1932年)の総選挙では、東京4区からは朴春琴という人が朝鮮名で立候補し衆議院議員に当選しています。2回当選しています。

    戦前日本在住朝鮮人関係新聞記事
    http://www.zinbun.kyoto-u.ac.jp/~mizna/cgi-bin/shinbun/shinbuns.cgi?midashi=%C4%AB%C1%AF%CA%B8%BB%FA&shinbun=&local1=&local2=&bunrui=&_ymd=year1&year1=1930&month1=2&beforeyear=&beforemonth=&afteryear=&aftermonth=&karayear=&karamonth=&madeyear=&mademonth=&perpage=100&page=1

    昭和21年(1946年)に予定された総選挙から朝鮮半島などに在住の帝國臣民(日本人及び朝鮮人など)に衆議院の(外地は所得制限付き)参政権が与えられる予定でした。地方議会は早い時期から付与済みです。

    因みに、敗戦後、昭和21年(1946年)4月10日に帝國憲法の下第22回衆議院総選挙が行われています。その選挙では内地在住の朝鮮人の選挙権は当面停止となりました。その後韓国籍になった元日本人(朝鮮人)の参政権獲得の理由付けのひとつとして今に残っています。

    ブレットさんには、アメリカの戦時プロパガンダが、そのままに残っているように見えるのですがいかがでしょうか。

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