「Ambiguous」……。

美しくも醜くもある。善でも悪でもある。優しくも恐ろしくもある。

このようなものを英語では、「Ambiguous」と言う。「何とも言えない」ような時に使うのではなく、「何とでも言える」時にこそ使う言葉だ。

決して「矛盾している」という意味ではない。「AとBは同時にありえない!」という状況で使わないからだ。「Ambiguous」は、AとBがどれだけ対照的な特徴でも、両方確かに揃っている時に用いる形容詞である。

人間の本質、つまり、全人類共通の人間性 (Human Nature)、これは何と言っても「Ambiguous」だ。そして、世界の思想史を振り返ると、この事実を最初に取り上げたのは、「キリスト教」や「仏教」という宗教の教えである。何千年にもわたり、聖職者や僧侶たちがそれを訴えてきた。

しかし、近代になってくると、宗教の権力が弱まったせいか、現代人は、人類の本質がAmbiguousであることを逆に否定するようになってきた。人の行動の良し悪しならもちろん認識する。裁判も処罰も刑務所も未だに存在する。だが、人の悪行の原因については大きな混乱が起きている。

例えば、いかに極悪な犯罪でも、その原因として指摘されがちなのは、誰の心にも潜む「悪」ではなく、犯罪者の「教育の足りなさ」や「子ども時代の不幸」などである。現代人は犯罪などを抽象的な社会問題や国の政策のせいにすることもあり、昔の共産主義者などは、世の中のすべての悪行は資本主義に由来していると、非常にスケールの大きいことを言っていた。

このような思想は、誤った診察のごとく、患者(この場合は全人類)のためにならない。それは、本当の原因から焦点がずれているからだ。そして、「論理への執着が世の中を狂わせている」と主張することも、「『美しい情緒』が足りないだけだ」と主張することも、人間の本質を素直に見つめない、近代的な「誤診」に過ぎない。

もちろん、教育は大切だ。もちろん、自然に対する感受性も、無いより有った方が良いだろう。だが、人の悪行の裏にあるのは、「美しい情緒」の空白ではなく、高慢と欲望、そして他人に対する敵愾心である。

欲望や敵愾心について語る必要は無いだろうが、高慢については、もう一度ハミルトンの言葉を引用しよう。

私が特に尊敬していた日本人の特徴の一つは、彼らの謙遜さだった。第一軍の将校と下仕官にしても、一般の歩兵にしても、勝ち誇ったり、自慢したりするような場面を私は見たことがない。…… 徳高く、寛容であり、紳士的なこの情緒を認め、自分から同様の情を返すように務めるのは、今までの喜びだった。

しかし、ベールをはいでしまったかのように、私は途轍もなく大きな高慢が日本人の心に潜んでいることがわかったような気がする。つまり、日本人が勝利を得ても勝ち誇らないのは、一瞬たりとも、自分たちが負けることを想像できないからだ。

以前には、「突撃による白兵戦と物資に頼らない精神論へのこだわり」、それから「兵を死なせないで、勝利を得ることが出来ない」という旧陸軍の残念な思想をみてきた。これらを追及してみれば、すべてがハミルトンの右の言葉が描くような高慢に由来していると言えないだろうか?

高慢独特の危険性は、その態度がすべての志に染み込んで、すべての思想に影響を与え、すべての行動を知らず知らずの内に歪めてしまうことだ。ウイルスのように、潜伏期間は長いかもしれないが、いずれは症状が必ず現れる。

しかも、ハミルトン自身の晩年のエピソードは、高慢がどれだけ恐ろしいものかを表している。

ナチドイツの思想には、人間の最も卑怯な感情を煽り立てるものがあったと言えるだろう。巨大なスケールで行われたデモを通して、大衆を憤激させ、ユダヤ人に対する怒りを煽動し、外国への敵意を高めた。そして、いよいよ、これに暴力を加えると、ナチスは国を司る権力まで握ってしまった。

だが、卑怯な感情を煽動する反面、ナチズムは極端な「優越主義」だったため、インテリや文化人の高慢にも直接働きかける効果があったのだ。つまり、教養と実力のある人も、権力のある指導者も、自尊心をくすぐられて、凶悪な思想の甘い誘惑に負けやすかった。

残念ながら、文才のある軍人イアン・ハミルトンも、ナチスの影響を受け、ヒトラーに対して敬意を表すような時期まであった。軍国主義・国家主義の勇ましさに魅せられ、自分のような軍人こそが国を司るべきであると思ってしまったに違いない。