1904年5月19日に行われた、ある部隊の戦闘演習を、ハミルトンは最初から最後まで見ることが出来た。およそ1400メートル離れたところにある丘にロシア軍の塹壕がめぐらしてあることを想定して、そこまで突撃することが演習の目的だった。

まず、部隊の三分の一の兵士が先に出発し、しばらく走ってはうつ伏せになり、伏射(ねうち)をしてからまた走り出す。そして、これを二回繰り返すと、後ろから仲間の兵がさらに派遣され、全員で突進と伏射を交互に行い、塹壕があるとされている丘へ近づいていった。

この演習を見ながら、ハミルトンはすぐに二つの問題に気付いたそうだ。一つは、伏射する時間が短すぎるため、射撃は後ろからやってくる補助部隊の充分な援護になっていなかった。簡単に言えば、どの班もスタート時点からロシアの塹壕に到着するまでの間、敵軍の射撃をもろに受けてしまうことになるわけだった。

もう一つの問題は、兵と兵の横の間隔だった。最初の内だけ、どの兵も一メートルをあけて走るようにしていたが、部隊が進めば進むほど、この距離が縮み、とうとう肩をまるで寄せ合って走っているように見えたそうだ。相手がどんなに下手な打ち手だろうと、日本兵がこうして並んでいれば、それは狙われやすいだろう。

部隊が敵の射程距離に入ってからは、交互とはいえ、一部の兵が常に相手の射撃にさらされることは避けられない。だがそれにしても、日本軍のやり方では、四倍もの兵を同時にさらしてしまうことになる。すぐ隣に仲間がいなければ前進できないような臆病者だったら、このやり方も仕方ないだろうが、勇敢な日本兵についてはそんなことは考えられない。遠い距離から敵の銃と榴散弾によって兵力が半分もやられてしまえば、最終的な目的である銃剣攻撃もろくに実行できなくなってしまう。

演習が終わると、ハミルトンは早速指揮官に自分の意見を述べてみた。

演習が終わってから、私は大尉を褒めながらも率直に聞いてみた。あれだけ密度の高い戦闘隊形だと、無駄に兵を死なせることにはならないのか、と。

大尉の返事はまるでドイツ人のようだった。「兵を死なせないで、勝利を得ることが出来ない」。私はそれ以上大尉と論じなかった。

残念ながら、この大尉の考え方は、日露戦争の指揮官の間では珍しいものではなかったようだ。例えば、この演習から一週間も経たないうちに始まった「南山の戦い」の話がある。

南山の戦いは、両軍の砲兵部隊による交戦で始まり、その交戦が三時間も続いた後、日本軍はロシアの要塞や塹壕に向かって突撃した。もちろん、ロシア軍の機関銃の射撃を浴びながらだ。この時の死傷者はなんと4,381人にも及び、東京の大本営が報告を受けた時には、桁を間違えたのではないかと、その数字を本気で疑ったらしい。ちなみに、ロシア軍の死傷者はおよそ1,100人であった。

さて、日露戦争後、大日本帝国陸軍参謀員は、「南山の戦い」をはじめ、多くの戦闘における突撃隊の死傷率を反省し、基本的な戦略方法を改めれば良かったのだろうが、結果としては、「南山の戦い」を含め、日露戦争そのもので勝利を得たので、「突撃」という戦法は以前よりも重視されるようになった。この過程に関しては、戦闘技術など、歩兵の運用について書かれてある陸軍省発行の「歩兵操典」を次回みてみよう。