イギリス人の観戦武官イヤン・ハミルトンは、古代武士道独特の良さを保ち続ける日本の陸軍に大変関心したことを既に述べている。しかも、彼がその関心を抱き始めたのは、日本に到着して、初めて富士山を目にした瞬間だったと言える。『日露戦役観戦雑記』にある次の言葉で分かるように、武人ハミルトンは日本に一目惚れしたと言っても大げさではない。

今朝、船のエンジンの音が消え、急な静けさに私は目が覚めた。甲板まで駆け上り、外に出てみると、我々の巨大な船がまるで磁石に引かれているかのように、海上を滑らかに滑っていた。船はそのまま西へと向かい、航跡より、深い赤みのある太陽が昇ろうとしていた。

目の前に広がったのは「日の出る国」の入り江であった。水面の色は磨かれた翡翠のように澄んでいて、山々の陰が移る海岸沿いの部分は、漁船の帆で点々と飾られていた。この美しさに気が取られて、私は最初に気が付かなかったが、船・入り江・町より、全ての秀峰や谷間より、高く聳え立っていたのは、純白な雪の冠を被った富士山だった! まるで夢で見るような景色がそのまま現実になっているようで、私は愕然と見ほれてしまった。

将校として参戦したボーア戦争終了後、怪我をしていたハミルトンはしばらく南アフリカに滞在した。だが、イギリスへ帰国する前に、ハミルトンは熱心に上官に頼んで、観戦武官として日本に遣わしてもらった。到着日であった1904年3月16日に、ハミルトンは上の言葉に続けて、自分がなぜ日本にやってきたかについて記している:

古代ギリシア人が、野望に燃える敵軍をしとめた「マラトンの戦い」以来の大きなドラマが繰り広げらようとしている。私はそのドラマを演じる役者だけではなく、舞台そのものである地勢をも研究したい。

ユーラシア大陸最東端に始まろうとしていた、日本vsロシアの陸上戦。これを、ハミルトンは「マラトンの戦い」に比較している。紀元前五世紀、ギリシア軍がペルシア王国の遠征を食い止めた「マラトンの戦い」のことだ。この戦いは後のヨーロッパ史に計り知れない影響を与えたことを思うと、ロシアに立ち向かう日本に対するハミルトンの期待がいかに大きかったかはよく解る。

しかも、日本に到着してから、しばらく東京に留まったハミルトンの期待は更に高まった:

東京に来てからは、扁平足だったり、胸が薄かったり、姿勢が悪かったりするような兵隊を、私は一人も見たことがない。参謀将校はともかく、指揮官もてきぱきとしていて、大変丈夫そうだ。

日本の陸軍は徴兵制度の模範的な例のようだ。何十万人の候補者の中から、比較的少ない人数の兵が、技術の適用性や健康な体質で選抜され、召集されている。この陸軍は国家の最良な人材を占めているだろう。我々の軍隊とは大違いだ!

一ヵ月以上の東京滞在中に、ハミルトンは多くの政治家・官僚・軍人と会って、一人ひとりについて細かい評価を延べている。その中には、総理大臣の桂太郎、外務大臣の小村壽太郎、陸軍大臣の寺内正毅、海軍大臣の山本権兵衛などもいる。

五月上旬、ハミルトンは朝鮮半島の仁川湾にいよいよ到着し、それまでに行われた会戦の様子をさっそく調べ始めた。その報告が『日露戦役観戦雑記』に記される他に、「摩天嶺の戦い」や「遼陽会戦」など、ハミルトン自身が翌年の二月までに見た多くの戦闘についての記事も収録されている。一つの例を見てみよう:

寺院周辺で駐屯していた部隊の指揮官が銃声を聞くと、二十人ほどの斥侯隊を派遣した。

斥侯隊は寺院から尾根に沿って前進していったが、別の寺がある林の近くまで来ると、ロシア軍部隊と出会ってしまった。相手の人数がはるかに多かったため、日本軍の斥侯隊は、百八十メートルほど離れた森まで退き、生い茂るハシバミやブナの中に入った。

まだ夜が完全に明けない時刻だったため、斥侯隊は思うような攻撃は出来なかったが、寺から増援軍が到着すると、力を合わせ、小さなこの部隊はロシア軍の右翼に集中攻撃をした。この時、ロシア軍は喊声を三回上げ、森を目掛けて突進してきた。しかし、突進してきたものの、どのロシア兵も数メートルしか森に侵入してくることが出来なかったそうだ。

この戦いの時に軽い怪我をした伍長の話を後に聞いたところ、銃剣で戦おうとするロシア兵は「非常に殺しやすかった」。頭を下げ、銃剣を体の前に突き出したまま猪突猛進してくるだけだったようで、避けながら通り過ぎてしまうロシア兵を横から刺すだけだったそうだ。

こうした戦闘の描写、もしくは日本人指揮官とハミルトンの交流は『日露戦役観戦雑記』の主な内容であるが、日露戦争そのものに対するハミルトンの総合評価は、ある会戦について書いた次の言葉でよく表現されている。

この偉大な勝利を物語るのは、新しく占領した領土でも、奪った大砲や捕らえた敵兵でも、その他、物質的に計り知れるようなものではない。

宣戦布告の時から、日本人は立派な戦いぶりを見せてきた。忠実な兵士たちは秩序正しく且つ勇ましく行動し、指揮官たちも有能で誠実な働きをした。ロシアの戦争能力は自分たちに敵わないと全員信じようとしていた。

だが、勝利を実際に得るまで、彼らの心の底には漠然たる不安が残っていたようだ。「実際に戦場で交戦すると、何らかの理由で自分たちこそヨーロッパ人に敵わないのではないか」と。

しかし、その不安はもう過ぎ去って、永遠に戻ってこないだろう。

近代化を立派に成し遂げた日本が、武力においてもヨーロッパ諸国と対立できるような時代がやってきた。ハミルトンは、これを英語圏の読者に訴えていたのだ。

しかし、このように日本軍を高く評価しながらも、ハミルトンは早くも一つの大きな欠点にも気づき、それを注意せずにいられなかったようだ。

次回はその話に触れることにしよう。