GONOSEN-II

文学、歴史、時事問題。 とりあえず、私はこう思う。

Category: 「国家の品格」について (Page 1 of 5)

「国家の品格」について (1)

私は国際結婚がどうのこうのという話が嫌いだ。
私はアメリカ人。
妻は日本人。
それだけのことだ。

かといって、「結婚」について話し合うのは嫌ではない。男女関係、子育て、老後の準備……。どれも万国共通の話題であり、世代を超えて誰もが興味を持つことだ。

しかし、「国際」という二文字が頭につくだけで、私はうんざりしてしまう。その理由には、私が結婚早々に受けてしまったトラウマがある。「トラウマ」と呼ぶのは大げさかもしれないが、とにかく、それは妻の友人(ここでは智子と呼ぶことにしよう)によるものだ。

学生の頃から妻と仲が良かった智子は、異常なほど私達の「国際結婚」にこだわっていた。たまたま結婚した男女としてではなく、私達夫婦をどうしても「一人のアメリカ人」と「一人の日本人」として見ていたようだ。そのせいか、「日本人は○○だけど、アメリカ人は○○だよね……」というふうに、智子はどんな話題の会話をしていても、「アメリカ人と日本人の違い」に話を結び付けようとした。

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わら人形論法と風刺漫画 (2)

わら人形論法:

「違います! 私はそんなことは言ってません。私が言いたかったのは、○○だけです」

おそらく誰もがこんなセリフを一度ぐらいはこぼしたことがあるだろう。夫婦喧嘩の最中、友達との言い合いの時、PTAや会社の会議中に……。一度どころか、性格や職業によっては、しょっちゅう言っている人もいるだろう。

これは、相手が自分の言葉を正確に聞き取れなかった時やその内容について勘違いした時のセリフではない。それだったら、「あれ? 違いますよ。7時からではなく、8時からですよ」とか「朝7時ではなく、19時ですよ」のような答え方で充分なはずだ。

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カリカチュア (3)

「カリカチュア」とは、イタリア語では「誇張する」という意味になる。英語やフランス語でも「本当の様子よりも大げさに表す」という意味で使われ、人物画のジャンルでは、痩せている人をまるで骸骨のように描いたり、鼻が高い人の鼻を大根のように描いたりする画法を「カリカチュア」と言う。ポンペイの壁に当時の政治家と思われる人物の鼻やあごを妙に細長く描いた落書きがあることからして、カリカチュアには、かなり長い歴史がありそうだ。

似顔絵を旅行先で描いてもらうことはよくある話だ。「うん、うん。確かにこれはお前の眉毛だな。鼻もそっくりだ!」。こうして喜んでいる観光客の声がパリやニューヨークの街頭で毎日のようにあがっているだろう。だが、無邪気な遊びではなく、相手の欠点を誇大して描き、あるいは完全に現実離れした悪魔に見せたりする悪質なカリカチュアもある。

ブッシュ政権時のアメリカでは、大統領の顔をサルっぽく描く一こま漫画がやたら多く見られた。「ブッシュは頭が悪い」と批判することが作者の狙いだったに違いないが、それ以外に具体的な政策への批判などはまったく感じ取れない作品が多かった。同じように、クリントン大統領の在任中は、ひたすら好色家らしく描く漫画が流行っていた。

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「国家の品格」で見られる「わら人形」とカリカチュア (4)

以前、智子イズムという独特な思考法に触れてきた。ここでその特徴をもう一度挙げよう。

智子イズムを利用する人は:

① 細かい考慮を避ける。
② 素早く且つ大胆に自分と相手の個性や考え方を定義する。
③ ②の後には自分の主張をしまくる。

それから、細かいことに囚われないからこそ、智子イズムは便利な考え方であり、無知な人にとっても、一流の学者にとっても、否定できない魅力があるということについても触れてきた。

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論理学の父・アリストテレス (5)

「……論理だけでは人間社会の問題の解決は図れない……。 これは欧米人にはなかなか理解できないようで す」
「国家の品格」 第三章より。

欧米人の考え方には、こんなに大きな盲点が本当にあるのだろうか? その質問に取り組む前に論理学そのものについて少し考えてみよう。

論理学の原点は古代ギリシアにある。紀元前4世紀にプラトンの弟子だったアリストテレスは幅広い学問を究め、「哲学の父」、「科学の父」、「政治学の父」などと呼ばれるようになった。もちろん、彼こそが「論理学の父」でもあったのだ。

それから、哲学には、「認識論」という分野がある。知識はいったい何なのか? どうやって知識を得るのか? こういう素朴な疑問が認識論の研究課題であり、アリストテレスは知識論にも大きな影響を与えている。

例えば、アリストテレスによると、人間の知識の起源は、五感の刺激作用である。つまり、世の中のさまざまな物や現象を見たり、聞いたり、触れたりすることによって、私達はそれぞれの対象物に対する直感を得られる。こうした五感の働きはアリストテレス独特の知識論の始まりだ。

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「誤った論法」 (6)

アリストテレスがわかりやすく解き明かした「推論の世界」、これこそが論理学の活躍する領域である。具体的に言えば、論理学の目的は推理の過程を正しく定めることだ。

推理の過程に過ちがあれば、どんなに理屈をこねても、真理を導き出すことは出来ない。これを認めたアリストテレスは、正しい論法を教えるだけではなく、さまざまな誤った論法について後世の哲学者に警告を与えた。

アリストテレス(あるいは後の哲学者たち)が指摘した「誤った論法」は沢山あるが、代表的なものをここで見てみよう。

後件肯定の虚偽: この論法を「もし○○であれば、△△である。実際に△△である。だから○○である」と表記してもいいだろう。言葉に置き換えれば、次のようになる。「太郎が自分の妻を殺したならば、彼は悪人である。太郎は悪人だ。だから太郎は妻を殺したのである」。明らかにおかしい推論だ。太郎が悪人だとしても妻だけは愛しているかもしれない。

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中世ヨーロッパと論理学 (7)

確かな知識を目指す論理学がローマ帝国崩壊後にヨーロッパへ伝わった時、大きな刺激を受けたのは、中世の聖職者と神学者だった。12世紀を代表する学者、ピエール・アベラールもその一人であり、彼の著作「然りと否」は、論理学が当時の学問にどのような影響を与えたかを物語っている。

アベラールは、「然りと否」の中で、初期キリスト教の指導者たちによる発言(158)を収録しているが、それらはすべて、アベラールが「矛盾している」と判断したものばかりだ。とはいえ、教授であったアベラールの真の目的は、教父たちを批判することではなく、このような矛盾をどう解決できるかを、彼の生徒たちに考えさせることだった。したがって、「然りと否」は論文ではなく、「教科書」と呼んだ方が良いのかもしれない。

「然りと否」の序文の一部を引用しよう: 

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欧米に於ける論理の束縛 1 (8)

「国家の品格」をもう一度引用しよう。論理だけでは人間社会の様々な問題を解決することができない理由について、藤原氏が語っている所だ。 (第二章より)

『先ず第一は、人間の論理や理性には限界があるということです。すなわち、論理を通してみても、それが本質をついているかどうか判定できないということです。』

要するに、どんなに合理的な提案でも、それは現実に通用するかどうかはわかりかねる。だったら、合理的な解決法だけを求めたり、むやみに論理に頼ったりしてはならない。

なるほど。それは確かにそのとおりだ。欧米の文化には、藤原氏が言うほど論理にこだわる傾向が本当にあるのであれば、それは大変なことかもしれない。誰もがその危険性を認めるだろう。

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欧米に於ける論理の束縛 2 (9)

倫理について少し考えよう。

『人を殺していけないのは『駄目だから駄目』ということに尽きます。『以上、終わり』です。論理ではありません。このように、もっとも明らかのように見えることですら、論理的には説明出来ないのです。』
「国家の品格」第二章より。

これは立派な言葉だ。藤原氏の言うとおりだろう。だが、氏の言うように、これもまた欧米では理解されていないのだろうか?

そんなはずはない。

カントの至上命令や、ベンサムとミルの功利主義など、理屈っぽい倫理思想は確かにある。だが、藤原氏の言う「駄目だから駄目」のような、いわゆる先天的な概念こそが、倫理学の基本であることも、欧米では理解されている。ここでは、そんな話を深く追求しない。なにしろ、大半の人はカントの書物を手にすることは先ず無い。欧米における倫理観の本当の原点を追求した方が有益だろう。

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ヨーロッパの「暗黒時代」 (10)

『産業革命はイギリスで起きてしまいました。アフリカ、中南米、中近東はもちろん、日本や中国でさえまったく起こりそうな気配がなかった。と言うと、いかにも欧米の白人が優秀で、ほかの民族が劣等であるかに思えてきます。しかし、事実はそうではありません。例えば、五世紀から一五世紀までの中世を見てみましょう。アメリカは歴史の舞台に存在しないに等しい。ヨーロッパも小さな土地を巡って王侯間の抗争が続いており、無知と貧困と戦いに彩られていました。「蛮族」の集まりであったわけです。』    「国家の品格」第一章より。

欧米独特の論理への執着によって、世の中はやられてしまっている。この「論理馬鹿仮説」が、藤原氏の大きな主張であり、前章ではそれを見てきた。だが、そういう流れから考えたとしても、藤原氏がなぜ中世ヨーロッパをこうも批判しているのかが、正直に言うと、私にはよくわからない。なぜなら、論理への執着などがあったとしても、それはルネサンス期以降の話であって、中世がどうのこうのというのはあまり関係ない気がする。

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